
![]() ラッセル英単語・熟語1500 |
デカルトのように方法論的懐疑を実践し、精神的/知的習慣(癖)をほぐすことが必要である。また、論理的な想像力を養い、多くの仮説を手に入れ、常識によって安易に想像しやすくなった仮説の奴隷にならないようにすることが必要である。慣れ親しんだものを疑い、慣れ親しんでいないものを想像するという、この二つの過程(プロセス)は相関関係にあり、哲学者に必要な精神的/知的訓練の主要部分を形成している。
It is necessary to practice methodological doubt, like Descartes, in order to loosen the hold of mental habits; and it is necessary to cultivate logical imagination, in order to have a number of hypotheses at command, and not to be the slave of the one which common sense has rendered easy to imagine.These two processes, of doubting the familiar, and imagining the unfamiliar, are correlative, and form the chief part of the mental training required for a philosopher.
Source: Bertrand Russell: Our Knowledge of the External World, 1914, p.184
More info.: Not available.
<寸言>
ラッセルの言っているのはあくまでも「方法的(方法論的)」懐疑であり、哲学的理論としての「懐疑」ではありません。後者の意味での懐疑はなりたたない(「疑っている自分(私)」の存在は否定できないという主張は間違っている=「疑っているという"思考現象"が存在している事実は否定し難いが、それは「私」が存在しているという証明にはならない」)、というラッセルの主張です。
参考まで、「ラッセル落穂拾い_1917年」に掲載した、安冨歩『「学歴エリート」は暴走する』(講談社,2013年6月/講談社+α新書599-2c)の紹介から以下に引用しておきます。(安富氏は「京大」出身の東大東洋文化研究所教授です。)
https://russell-j.com/beginner/ochibo-2017.htm
(安富)「これは「方法的懐疑主義」というものの堕落した姿です。この考えはもともと「どんなに疑り深くなってみたところで、疑っているという私がいる、という事実だけは疑えない」というデカルトという人の言い出したことです。
しかし実は、一〇〇年はど前に、ラッセルという哲学者が、こんな考えは成り立たないことを証明してしまいました。簡単に言うと、「徹底的に疑りぶかくなったなら、そこにあるのは疑っているという事実だけであって、"私"なんて主体はどこにもないじゃないか。(疑っている私がいる〉なんて勝手に飛躍するんじゃないよ」ということです。
「私」という主体がなければ確実な知識もなにもありませんから、方法的懐疑は何らの確実な知識への道とならず、そのままニヒリズムへと堕落していってしまいます。
この鋭いツツコミによって、「方法的懐疑主義は成立しない」という身もふたもない話が証明されてしまったのです。にもかかわらず、現代にいたるまで方法的懐疑主義のふりをしたニヒリズムは続いています。」
#バートランド・ラッセル #Bertrand_Russell