三浦俊彦「文明の終焉と非同一性問題−「世代」「種」を超える倫理へ−
『岐阜』(研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
(p.7) この相違を考慮から外すためには、 次のような思考実験を試みればよい。 全世界の実験動物繁殖施設を、 用途を変えずそのまま運営し続けるか、 それとも全てもしくは多くの実験施設を盲導犬・聴導犬・警察犬・軍用犬・ペット等の繁殖施設へ変更するか、 選択が迫られているという想定である (殺処分を待つ犬を引き取って盲導犬・聴導犬として訓練することは一部で実際に行なわれている)。 どちらの政策を採るかによって、 動物種の需要や飼育・運営の方法が違ってくるため、 全く異なる個体が誕生することになるだろうが、 生まれる動物の数に必然的な増減はないかもしれない。 このようなさほど非現実的でない想定のもとでは、 功利主義的な観点からの相違は消滅するのである。
 第二の相違はこうである。 資源枯渇政策の場合、 未来の人々に対する影響は現在の政策者の目的の一部でないのに対して、 動物実験の場合には、 実験動物に対する影響が政策者の目的の一部だということ。 Aの政策者の目的はあくまで現在の福祉効果にあり、 未来の人々の苦しみは単なる随伴効果であって、 政策者の関知するところではない。 むしろ逆に政策者は、 未来の世代も可能な限り幸福になればよいと願っていたかもしれない(注9)。 一方、 動物実験の場合は、 実験動物の苦しみと死は、 政策者および実験者が大いに関知しコントロールさえする事柄であり、 目的の一部となっている。 この相違は、 未必の故意と傷害・殺人罪との違いに似ている。 このことは先に見た第一の相違とは逆に、 「資源枯渇政策よりも動物実験の方が無条件に悪い」 という結論を導くであろう。
 明瞭と思われるこの第二の違いは、 詳しく吟味してみるならば一見したより遙かに微妙な違いであり、 本当の相違であるのかどうかは実は疑わしい (注10)。 ここでは、 これが倫理的に重要な違いであるかどうかについては論じない。 しかし直観的な違いがあることは事実であり、 それが客観的・構造的な相違を表わしているということはありそうである。 とするならば、 倫理的に動物実験を容認する社会は、 政策Aをさらに容易に実行しそうだ、 という暫定的な推測も成り立つだろう。(次ページに続く)