(p.6) こうして 「非同一性問題」 が生ずる。 政策Aは、 確かに地球環境を悪化させるが、 未来の世代の誰に対しても 「不利なこと」 をしてはいない。 Aの世界で生まれる未来の人々は、 他ならぬ政策Aが原因となって生まれてきた人々ばかりだからである。 よって、 特定の人々の生活水準や幸福度が、 Aの場合にBの場合よりも低下する、 ということはない。 未来のいかなる人の生活権も侵害されてはいない。 Aの場合に生まれた未来の世代は、 「先祖が政策Bをとってくれていたら私たちはもっと快適な生活が送れたのに」 と合理的に苦情を申し立てることはできないのだ。
非同一性問題は、 人権への訴えが無力になる地点を示している。 実在する特定の誰の人権も侵されていないのであるから。 この事情はまさに、 繁殖動物による動物実験の場合と同じであろう。 あの場合も、 いかなる実在の動物の 「生きる権利」 も侵犯されていないのである。 政策Aを非難し、 繁殖動物による動物実験を非難するためには、 素朴な人権主義やアニマル・ライトのような 「人格的」 「個体尊重的」 原理に頼るのではなく、 古典的な功利主義を持ち出さなければならないことになるだろう。 功利主義は、 利害を蒙るのが 「誰であるか」 ということを無視する。 誰であれ存在する者たちの幸福マイナス不幸の総計が最大となるような状況を最善とする。 したがって、 より幸福な者が生まれえたのにあえて不幸な者たちを生まれさせるような政策は、 (合理的に苦情を言える者が誰もいないとしても) 悪とされるのである。
ただし、 功利主義的に解釈された場合、 資源枯渇政策の例と動物実験の例とでは、 二つの重要な相違があることに注意しよう。 まず第一に、 前者の場合、 二つの未来の人口がどのように異なるかについて、 特定の前提はない。 A世界の方が将来の人口が多いかもしれないし、 B世界の方が多いかもしれない。 よって、 人口は仮に等しいと想定するのが穏当である。 人口が等しい場合、 かりにA世界の人々が総じて不幸よりも幸福の方が多い生を送ることになるとしても、 B世界に比べれば幸福度の総計が少ないだろう。 こうして功利主義的な観点からは、 無条件でBの方がよいという結論が導かれる。 一方、 繁殖動物を用いる動物実験の場合は、 実験を廃止した場合よりも続行する場合の方が、 生命の数が多くなる。 よって、 総じて実験動物の生涯の幸福よりも不幸が上回るという条件付きでのみ、 実験廃止が功利主義的に正しいことになるのである。(次ページに続く)
|