三浦俊彦「結ぼれ、了解、異文化、鼠−R. D. レインの視線−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.6) つまり『結ぼれ』所収のあの不可思議な諸作品は、臨床の忠実な記述をまださほど逸脱してはいない、もしくはしようとしていないのである。このことは、症例分析の経験に確固と基づいた理論書である『ひき裂かれた自己』や『自己と他者」と『結ぼれ』を比較してみても大体のところ確認されるように思われる。
 だが、『結ぼれ』を症例から独立した一箇の純粋な詩集として見、こうした形式での創作法に気づかされたわれわれとしては、レインの提示したあの記号法をもとに、自由な内容代入を試みればどういうことになるかを少しく気にしてもよいかもしれない。例えばいま、全く悠意的に
 P→(O→(O→(P→(O→P))))
という図式を設定して、→を具体的内容で自由に埋めていってみると、次のような一連の文章が出来上がる。
 まず全ての→に同じ「愛する」を代入するならば、
 a、<<彼女に愛されたいとぼくが思うことを彼女は熱望することに自分自身喜びを見出してくれればぼくは大変嬉しい>>
 逆に全ての→に「憎む」を代入すれば、
 b、<<彼女に嫌われたくないとぼくが思うことを彼女は厭がるまい厭がるまいと努めているようだがぼくはそんなのはご免だ>>
 代入は一様で簡単なものばかりではない− 心の鏡は正確に同じ種類の反射の仕方を繰り返すとは限らない。
 c、<<女に憎まれたいとぼくが望んでいるということに彼女がびっくりしていると彼女自身気がついていないとは全く不思議だ>>
 d、<<彼に愛されたくないとわたしが感じていることに気づくまいと彼が頑張っているのがわたしはこわくて仕力がない>>
 e、<<妻が私を信頼しているものと私が信じていると妻は確信できないのではないかと怖れているのが私は滑稽でたまらない>>(次ページに続く)