(p.5)
等々の記法を約束しておいて(他にも >、:、≡、、などが用いられるがここでは省略)、レインの挙げた例で言えばたとえば次のように適用される。
<<自分のしたことを悪いと思っていない小さな男の子Pは、しかしそのことについて申し訳なさそうな態度をとるように母親Oから期待されていることを知っていてそのように振舞うが、母親Oはこの見せかけを見破っている>>は、
O→(P→(O→(P→P)))
<<妻Oがもはや夫に愛を感じていないことを夫Pは知らないものと妻Oが考えていると夫Pは考える》は
P→(O→(P→(O→P)))
こうした連鎖の長さについては、何らの制限も見出されていない。あまりにも長々とした連鎖についての「論議は単なる<理論的>錯綜であって実地上の価値をもたないと考える以上の、大きなミステイクはないであろう」(『自己と他者』p.174)とレインははっきりと述べている。精神療法の完全のために分析家・療法家は、患者(たち)の心の中に実際しばしば存在するこうした限りない紛糾を、単なる抽象的構図として概念的にではなく生動的事実として実感のうちに把握し、現象学的に理解し解(ほぐ)してゆかねばならないのである。(「本書の……基本的な目的は、狂気を、そして狂気へと至るプロセスを了解可能(comprehensible)にすることにある。」− レイン『ひき裂かれた自己』(The Divided Self, 1960 初版への序文)
さて、臨床経験から、現実の人間の空想が右のような記号法によって例解されることを知ったとき、今度は逆に、はじめに人工的な記号構造の連鎖を拵え(こしらえ)ておいて、それに例解されるような人間の意識にはどのようなものがあるかを思い巡らしてみることが可能となるだろう。つまり、形骸としての矢印→に相当する部分に、内容としてさまざまな精神志向作用を恣意的に代入し、出来上がった文章をもて遊ぶことができる。レインは『結ぼれ』において、現実的臨床医から一種の詩人へと変身してそのような手細工を弄しにかかっているわけである。それでもレインは、「抽象的な論理−数学計算めざしてさらに蒸留の度合を進めてもよかっただろう」が「源泉をなすきわめて特殊な経験まで遡って考察することができ」るように「私が実際目にした模様のうちいくつかを述べるだけにしておいた」(『結ぼれ』序文)と言う。(次ページに続く)
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