(本館)  (トップ) (分館)
バートランド・ラッセルのポータルサイト用の日本語看板画像

ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

バートランド・ラッセル 自伝 第1巻第5章 - 1896年秋の渡米(松下彰良・訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第5章(初婚)累積版へ  総目次

 1896年の秋,--主にアリスの親戚と知り合いになるために--アリスと私は,3ヶ月間,渡米した。(原注:私たちはモーリス・シェルドン・エイモス(Sir Maurice Sheldon Amos, 1872-1940/エイモス=アモス)の妹のボンテ・エイモス(Bonte Amos, 1880-195?)を一緒に連れていった。) 最初にしたことは,ニュージャージー州のカムデン(キャムデン)(注:ニュージャージー州南西部の,デラウェア河畔の小都市/フィラデルフィアの対岸にある米国で最も危険な地域/カムデンについて)にある(故)ウォルト・ホイットマン(1819~1892)の家を訪ねることであった(訳注:アリスは,晩年のホイットマンと親しかったようである。ただし,ラッセルがアリスとともに渡米したのは1896年のことであり,ホイットマンは,4年前の1892年に死亡している)。そこから,ミルヴィルという小さな工業の町に行った。そこでは,ボンド・トーマスというアリスのいとこが,長い間家業であったガラス工場を経営していた。彼の妻エディスは,アリスの大親友であった。国勢調査によれば,その町の人口は10,002人であったが,トーマス夫妻は,その2人というのは自分たちであるとよく言っていた。夫の方は素朴な魂のもち主であったが,妻の方は文学に対する野心を抱いていた。彼女は,スクリーブ(Eugene Scribe ウジェーヌ・スクリーブ, 1791-1861/19世紀フランスにおいて最も有名な劇作家)流の文体で下手な(出来の悪い)戯曲を書いており,自分がミルヴィルを離れ,ヨーロッパにおける文学の指導的な人たちと接触することさえできれば,自分の才能は認められるであろうと想像していた。彼は, 控えめで,彼女に対し献身的であったが,彼女の方は,彼女が夫よりも繊細な人間だと思うさまざまの男たちとの恋愛遊戯にふけっていた。その当時,その辺の田舎は,なにもない森林地帯であったが,彼女はよく私を,軽装4輪馬車(buggy は,英国では2輪馬車)で挨っぽい小道を,長距離ドライブに連れ出した。彼女は,何時役に立つか誰にもわからないと言って,いつもリボルバー(連発ピストル)を携帯していた。後で起こった出来事から,彼女は以前ヘッダ・ガプラー=ヘッダ・ガーブレル(Hedda Gabler: イプセンの戯曲)を読んでいたのだろうと思うようになった。2年後,彼らは2人でヴェニスにやってきて,ある立派な邸宅に私たちと一緒に滞在(宿泊)した。そこで私たちは,彼女をさまざまの作家に紹介した。(その結果)10年間ミルヴィルで,孤独の中,彼女が努力して書き上げた作品は,全然価値がないものだということがわかった。彼女は,深く落胆してアメリカに帰国した。次に私たちが聞いたのは,彼女が,夫からのラブレターを自分の胸(心臓)の上に載せ,それを連発ピストルで撃ち抜いて自殺したということであった。その後彼は別の女性と再婚したが,その女性は彼女と全く同じような女性であったそうである。(★参考:ラッセル『幸福論』の中の,'自分の長所を過大評価することによる不幸の例'

あるいは
アマゾンで購入


拡大する!(enlarge)
In the autumn of 1896, Alys and I went to America for three months, largely in order that I might make the acquaintance of her relations. (With us we took Bonte Amos, the sister of Maurice Sheldon Amos) The first thing we did was to visit Walt Whitman's house in Camden, N.J. From there we went to a small manufacturing town called Millville, where a cousin of hers, named Bond Thomas, was the manager of a glass factory which had, for a long time, been the family business. His wife, Edith, was a great friend of Alys's. According to the Census, the town had l0,002 inhabitants, and they used to say that they were the two. He was a simple soul, but she had literary aspirations. She wrote bad plays in the style of Scribe, and imagined that if only she could get away from Millville and establish contact with the literary lights of Europe, her talent would be recognised. He was humbly devoted to her, but she had various flirtations with men whom she imagined to be of finer clay. In those days the country round about consisted of empty woodland, and she used to take me long drives over dirt tracks in a buggy. She always carried a revolver, saying one could never know when it would come in handy. Subsequent events led me to suspect that she had been reading Hedda Gabler. Two years later, they both came to stay with us in a palace in Venice, and we introduced her to various writers. It turned out that the work she had produced with such labour during the ten years' isolation in Millville was completely worthless. She went back to America profoundly discouraged, and the next we heard was that, after placing her husband's love letters over her heart, she had shot herself through them with the revolver. He subsequently married another woman who was said to be exactly like her.
[リチャード・ディーコン『ケンブリッジのエリートたち』pp.40-41から引用)
・・・。これに刺激を受けたのか,ラッセルは,1894年2月に,現実的な提案を行なった。その頃,'使徒会'のために論文を書いていたラッセルは,女性の入会を主題としていると,妻に告げている,その論文の題は,「ローベルグかヘッダか」という謎めいたものであったが,「女性を選びたいと思うか?」という質問を呈していた。「たいと思う」という語を挿入したことが,投票に思わぬ影響を与えたかどうかは,議論の余地のあるところである。おそらく影響を与えたのであろう。9人の会員が「思う」と投票したのに対して,同性愛の実行者であるゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンただひとりが「思わない」と投票した。この時の投票と考え合わせると,女性が実際に入会を認められたのが,2つの世界大戦のあった後,76年後であるのは,驚くべきことに思える。
(掲載日:2005.10.05 更新日:2011.4.6)