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(表紙画像) 削除した問題も、せっかく作ったので、ここで公開しようと思います。 しばらくしたら解答を載せますので、考えてみてください。 問1 ★文学作品の解釈 (解釈相対主義) 文を修飾する「は真なる解釈と認められる」という副詞句を、Tと書こう。 「フィクションの中で」という副詞句を、fと書こう。 たとえば、「シャーロック・ホームズは女嫌いである、という読みは正しい」は、T(f「シャーロック・ホームズは女嫌いである」)となる。 さて、複数の解釈を許すような小説がある。例えばヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』の結末で、家庭教師に抱かれたまま子どもが死んでゆくが、なぜか? 代表的な解釈として、次の二つが考えられよう。 P「子どもは全編に登場してきたあの幽霊に殺されたのだ」 Q「幽霊は家庭教師の妄想であり、子どもは家庭教師に殺されたのだ」 PとQは互いに矛盾しており、両立しない。 話を簡単にするため、PとQ以外の解釈の余地はないとすると、Qを「Pでない」と書くことができる。(他の解釈がある場合は、Qの代わりに、P以外ならどういう理解でもいいというゆるやかな解釈を採れば、Qを含む広い解釈「Pでない」が得られる。) さて、次の論理式を眺めよう。 1 T(f(Pかつ〜P)) 2 T(f(P)かつf(〜P)) 3 T(f(P)かつ〜f(P)) 4 T(f(P))かつT(f(〜P)) 5 T(f(P))かつT(〜f(P)) 6 T(f(P))かつ〜T(f(P)) 解釈は読み手によって異なるし、時代や社会によっても異なるのだ、それぞれが正しいのだ、という「解釈相対主義」が一般にポピュラーである。解釈相対主義を表わしたものとして、1〜6のどれが適切だろうか?(複数回答可) ★物語世界の空白 Tとfは前の問題と同じ。 さて、小説というものは必ず記述されない箇所がある。例えばハムレットは父を殺される前々夜、オフィリアと1時間以上話をしただろうか。 P「した」 〜P「していない」 Pと〜Pのどちらかに決定しているはずである。どっちつかずにあやふやになっていることはない。しかし、テキストのどこにも書いてないので、空白でもある。 こうした空白部については、ふつう、解釈は成り立ちようがない。有限の言語で無限の世界を記述するこのフィクションの宿命を表わしたものとして、次のどれが適切だろうか。(複数回答可) 1 T(f(Pまたは〜P)) 2 T(f(P)またはf(〜P)) 3 T(f(P)または〜f(P)) 4 T(f(P))またはT(f(〜P)) 5 T(f(P))またはT(〜f(P)) 6 T(f(P))または〜T(f(P)) 問2 ★芸術の「について」性 芸術作品は言語の一種である、という見方がある。 その見方に基づいて、芸術の定義の一つの要素に、何か「について」語るもの、ということがよく言われる。 確かに、ここにある鞄や椅子やシャープペンシルは何「についての」物でもなく、ただ自らが存在するだけだが、風景画や人物画、彫刻や詩や演劇など芸術作品は、みな、何がしかの事柄「について」のものである。歌詞のない音楽にしても、感情や雰囲気を表現することで、「感情や雰囲気についての」ものと言ってよい。 しかし、現代芸術、とりわけレディ・メイドとかコンセプチュアルアートとか呼ばれるものの中には、デュシャンの『泉』のように、ただ小便器をひっくり返して置いただけのものとか、ただの石ころを展示したものとか、ケージの『4分33秒』のようにピアニストが4分33秒間ただピアノの前に座って一つも音を出さずに退場する作品とか、妙な代物がたくさんある。ここにある椅子はここにあればただの椅子であり何「についての」物でもないが、これを芸術家が美術館に持っていって展示すれば、芸術作品になってしまう。物体としては同じ椅子であるにもかかわらずだ。さてすると、そういった「前衛芸術作品」はいったい、何「についての」物なのだろうか? しょせんはただの「物」なのだから、何についてのものでもないように思われるのだが。それとも、そうした前衛芸術の類は「芸術」ではないのだろうか? |