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下村寅太郎「バートランド・ラッセルのこと-ノーベル文学賞受賞に因んで」(1951年)

* 再録:下村著『精神史の森の中で(研究ノートより)』(河出書房新社,1972年8月)pp.168-174.
*下村寅太郎(1902~1995):京大哲学科卒。西田幾多郎の最後の高弟、享年92歳。東京教育大学(現筑波大)教授を経て、学習院大学教授を歴任
* やすだ・じゅん 「日本的なるもの4(下村寅太郎)」
下村「バートランド・ラッセルのこと」


 ノーベル賞や文化勲賞が授与されると、今までは単に specialist であった人たちでも急に universal な人になる。これまで方面違いのために知らないでいた人が、この機会に我々の知人名簿にはいって来る。このような表彰は、御当人にとってはどうであろうとも、我々にははなはだ幸わせである(右写真:ノーベル賞受賞パーティにて)
 今度(=1950年)バートランド・ラッセルがノーベル文学賞を受けたというので、私のような非文学的な者に編集者から執筆の慫慂(しょうよう)をうけることになった。しかし私の知っているラッセルは数理哲学者で、また数理哲学者だったからである。さる友人はラッセルが数理哲学者だったことに驚いたが、私にとっては彼が文学賞を貰ったことに驚いてよいのかもしれない。
 しかし書架をあさって見たら何時の間にかラッセルの著作は二十冊近くも集まっている。数学者として彼を有名にした『数学の原理』(1903)、ニュートンの『プリンピキァ』が十七世紀の記念碑であったのに対して、二十世紀の記念碑と言われた『プリンピキア・マテマティカ(数学原理)』3vols.(1910~1913)の大著、ライプニッツ研究の一時期を劃した『ライプニッツ哲学の批判的叙説』(1900)、それから『哲学の諸問題』、『神秘主義と論理学』、『哲学における科学的方法』、『物質の分析』、『精神の分析』、近著『人間的知識』のような哲学的著作の外に、『ドイツの社会民主主義』(1896)、『社会改造の原理』(1916)、『自由への道』(1918)、『シナ問題』(1922)のような種類のものがある。その外に、『教育論』や『結婚と道徳』、更に『何故に私は基督教徒ではないか』というような著書があった筈である。更に彼は十九世紀の社会思想史を扱った『自由と組織』や近作『西欧哲学史』の大作がある。これらの著書を通じてラッセルは確かに現代のイギリスにおける最も世界的に popular な哲学者であろう。どの書物も明晰、鋭利で、機智に富んでいる。しかし深いとは思われない。むしろラッセル自身「深い哲学」に対して懐疑的なのである。
 W.R.イングによると、イギリス人はドイツ人に較べて a nation of amateurs だとのことであるが、実際に哲学においてもイギリスには昔からほとんど「体系家」が(い)ない。ホッブスとスペンサーぐらいがそのきわめて稀な例外である。体系の組織というと先ず第一原理を立ててそれから世界および人間の諸原理を演繹して来ることである。伝統的に経験主義者であるイギリスの哲学者はかかる heroic method に対して懐疑的である。昔から体系的演繹的な哲学は数学と結びついているのが普通であるが、そしてラッセルは本来数学者であったが、演繹的な考え方に対してはなはだ消極的である。むしろ積極的に経験主義と数学とを結びつけようとすることが彼の哲学者としての最大の仕事のように見える。思想的自伝とも言うべき文章の中で自ら語っている。
「私は、哲学は知的難問に英雄的方法を用いることによって誤りを犯していたのではないか、それの解答はより大なる慎重さと正確さとによってのみ見出さるべきではないか、と考えるようになった。時の経つと共にこの考えをますます強く採るようになり、ついに、科学とは別なそれ自身の方法をもつ哲学は、神学からの不幸な遺産以上のものであり得るかを疑うに到った。」
 ラッセルでは、哲学の仕事は、科学の根本原理や基礎概念を論理的に追究して、科学が未だ確認することの出来ないそれの最高原理を開明にすることである、しかしその最高原理は宗教のドグマのように不変のものでなく常に「仮説」である、一つの可能的な仮説である。従って他の仮説も可能であり、常に科学的事実と完全に適合するように多くの方法によって拡充、精錬されねばならないものである。
「私はただ一つだけしか可能でないような仮説に到達し得る方法があるとは信じない。従って形而上学においては確定性は到達し難いものであると思う。」
 だからラッセルにとっては哲学はドイツ哲学のように「絶対者の学」ではない。宗教や神学と連なるものでなく、もっぱら科学と結びついている。哲学者は世界が善きものであることを証明する慣例になっているが、「私はかかる義務を認めることは出来ない。」「個人の不死の信念も哲学以外に根拠をもつものである。」「哲学的思索の上からは、世界が善なることを証明しようとする願望は人間の弱さと思わねばならぬ。」

の画像  このような哲学は確かにイギリスの伝統である経験主義である。イギリス人の逞しい良識である。良識というものは常に経験主義である。これは適度の懐疑論でもある。『懐疑論集』という評論集の中でこんなことを言っている所がある。
「『真なりとする根拠のない命題を信じるのは望ましくない』というドクトリンを提案したいのだが、もしこのような意見が普通になると、我々の社会生活や我々の政治組織は完全に変形してしまうであろう。しかし自分はイギリス風に妥協と適度を愛するイギリス・ホイッグ党(員)だからピロンのような heroic scepticism を主張しようとするわけではない。常識になっている普通の信念を認めるにやぶさかではない。自分の主張する懐疑論は中間的なもので、第一に、専門家の間で一致した意見がある場合には、それと反対の意見は確かだとはされ得ないこと、第二に、彼らが一致しない場合には、いかなる意見も非専門家によって確かと見倣され得ないこと、第三に、彼らがすべて、積極的な意見に対する何ら十分な根拠がないとする場合には、普通人は自分の判断を差し控えるがよいということ。――このような提案は温和に見えるが、しかし、もしこれが受け入れられるなら、人間生活を絶対的に変革するであろう。というのは、人々がそのために戦ったり迫害したりする意見はすべてこの懐疑論が非とする三種類の一つに属するからである。人々が passion をもって支持する意見というものは常に十分な根拠の存しない意見である。実際に passion はそれの支持者の合理的信念の欠如の尺度である。政治や宗教上の意見はほとんど常に passionately に支持される。中国は例外であるが、この種の意見に対して懐疑的であることは何にも増して憎まれる。実際生活の必要がこの種の意見を要求するので、もし我々がもっと合理的になれば社会生活は不可能になると考えられているが、自分はそれとは反対のことを信じている。というのは、我々の本能は、一方では我々自身と我々の子孫の生命を増進せしめようとする傾向と、他方では競争者の生命を妨害しようとする傾向とから成る。前者は生の悦び、愛、芸術を含み、後者は争い、愛国心と戦争を含む。習俗的道徳心は全力を尽して前者を抑止し、後者を奨励した。しかし真の道徳心は正にその反対をなすであろう。実際には憎悪の具現にすぎない行為を正義への愛、或いは何か高い動機からなされたかのごとき信念に対して私は大いに懐疑を向け、その真相を明らかにせねばならぬ。これによって羨望や拘束に基づく道徳でなく、全き生の願望と他人が助けであって妨げでないという自覚に基づく新しい道徳を築くことが出来る。これは空想的な希望ではない。部分的にはエリザベス朝のイギリスで実現されている。もし人が他人の悲惨よりもむしろ自己自身の幸福を追究すべきことを覚るならば明日にでも実現されるであろう。
 こういうものがラッセルの「懐疑論」の性格である。やはり伝統的なイギリスの哲学思想と言うことが出来るであろう。
 ラッセルは最初から単に純粋数学者であったのではなく、その処女作は『ドイツ社会民主主義』(1896)であった。弱冠二十六歳(注:1896歳の出版なので、24歳の作品である。大作『数学の原理』が出来たのは三十一歳の時である(注:出版は1903年であるが、世紀末に書き上げたと言っているので、28歳。俊才ぶりが想像される。ラッセルが純粋な理論哲学から政治社会的な問題に転じたのは前の大戦(第一次大戦)が動機であったように見えたが、しかし最初からその関心があった。ラッセル家はヘンリー八世の時代からイギリスの歴史に出て来る古い貴族である。ヴィクトリア朝の首相の一人で、ホイッグ党の指導者として有名なジョン・ラッセルは彼の祖父である。ケンブリッジのトリニティ・カレッジを卒業して、フェローとなり、更に講師になったが、同時に活発なフェビアン協会の会員であった。何度か国会議員に立候補したが成功しなかった。熱烈な平和論者で第一次世界大戦中、ある conscientious objector (良心による出征拒否者)に対する判決を非難した冊子を出版した廉で起訴され、一〇〇ポンドの罰金を科せられたが、これを支払うことを拒絶し、そのために差押えを蒙った。講師の地位からもく逐われた。ハーバード大学の講師に招聘されたが、外務省は旅券の下付を拒んだ。一九一八年には国防条例によって投獄された。獄中で『数理哲学入門』を書いた。しかしナチスの勃興は彼の平和論を変容せしめた。
 戦後、労働党の代表の一人としてソ連を訪問、一九二〇年には北京大学に招聘されて中国に旅行した。「ロシアと中国への訪問によって大いに影響をうけたが、前者の場合には negatively に、後者の場合には positively に」と言う。帰途日本にも立ち寄った。日本については、ある個所で科学的社会の人工的創造の可能性を例証した二つの強国として、明治の日本とソヴィエト・ロシアとを挙げ、「近代日本は科学を政治的必要に適応せしめるに当って異常な聡明さを示した」と言っている。もっともこれは一九三一年に出た書物においてである。一九三九年、カリフォルニア大学の哲学教授になり、翌年ニューヨーク大学の教授に任命されたが、この任命をめぐって烈しい論争が起こり、ついにニューヨーク最高裁判所によって取消されたことは記憶に新しいことであろう。一九四四年イギリスに帰った。トリニティ・カレッジは改めて彼にフェローの身分を授けた。一九三一年に長兄 E.ラッセル(注:F.ラッセルの間違い)の死によってその後を継いだが、長くその伯爵の称号を執らなかった。(ノーベル賞授賞に因んで、一九五一(筆))