第15章 権力と道徳律, n.15 - 敵に対する義務という概念
敵に対する義務というのは難しい概念である。情け深いこと(clemency)は,古代においては,一つの徳(美徳)として認められていた。しかし,それは,つまり,それによって(敵が)味方になるという場合だけであった(限られていた)。そうでない場合は,情け深いことは,(人間としての)弱さだとして非難された。恐怖(心)が起こった場合には,誰も雅量(maginanimity 雅量のある言動)をまったく期待しなかった。(たとえば)ローマ人は,ハンニバル(将軍)やスパルタクスに従った人々に対してはまったく雅量を示さなかった。(注:カルタゴの将軍であるハンニバルはローマ人にとって最強の敵であり,人間味のない恐るべき将であった。一方、スパルタクスは共和政ローマ期の剣闘士で,ローマ軍を数度にわたって破った。) 騎士道の時代においては,騎士は,捕虜になった騎士に対し礼儀を示すことが期待された。しかし,騎士同士の争いは,それほど重大なものではなかった。(また)アルビ派の人々(注:the Albigenses フランス南部のアルビ地方に起こった異端カタリ派の一派で,アルビジョワ派討伐のために組織されたアルビジョア十字軍と異端審問によって13世紀に壊滅)に対しては,慈悲(情け)はいささかも示されなかった。今日においては,それとほぼ同等の残忍さが,フィンランド,ハンガリー,ドイツ及びスペインにおける白色テロ(注: white terrors 為政者や権力者などによって政治的敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動のことで,敵対勢力の不当逮捕や言論統制などがある。)の犠牲者に対して示されてきており,政敵の間でのものを除いて,これに対する抗議はほとんど起こされてこなかった。同様にロシアにおける白色テロも,左翼の大部分の人々によって大目に見られてきている。現代は,旧約聖書の時代と同じく,敵が恐怖を起こさせるほど恐るべきものである場合には,敵に対する義務は,実際上,まったく認められていない。(即ち)実際的道徳は,実際上,関係する社会集団の範囲内でいまだ働いているだけであり,従って,実際上,実際的道徳は,いまだ統治の(ための)一部門のままである(注:a department of government 統治のための一手段ということか?)。世界政府というようなものでもできないかぎり,完徳の勧め(注:a counsel of perfection 実現不可能な理想案)として以外,喧嘩ずきな気質の人々を,道徳的義務が人類の一部だけにかぎられたものでないこと(道徳的義務はみんなのものであること)を認めさせることはできないであろう。
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Chapter 15: Power and Moral Codes, n.15
Duty to enemies is a difficult conception. Clemency was recognized as a virtue in antiquity, but only when it was successful, that is to say, when it turned enemies into friends ; otherwise, it was condemned as a weakness. When fear had been aroused, no one expected magnanimity : the Romans showed none towards Hannibal or the followers of Spartacus. In the days of chivalry, a knight was expected to show courtesy to a knightly captive. But the conflicts of knights were not very serious ; not the faintest mercy was shown to the Albigenses. In our day, almost equal ferocity has been shown towards the victims of the white terrors in Finland, Hungary, Germany, and Spain, and hardly any protests have been aroused except among political opponents. The terror in Russia, likewise, has been condoned by most of the Left. Now, as in the days of the Old Testament, no duty to enemies is acknowledged in practice when they are sufficiently formidable to arouse fear. Positive morality, in effect, is still only operative within the social group concerned, and is therefore still, in effect, a department of government. Nothing short of a world government will cause people of pugnacious disposition to admit, except as a counsel of perfection, that moral obligations are not confined to a section of the human race.
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