第14章 競争, n.16 - 哲学者の観点から見た宣伝
私は今や,宣伝の自由に関して,哲学者の観点(見地)から考えるところに達している。ギボンは,古代の寛容の精神を記述しているところで,次のように述べている。「様々な(多様な)様式の崇拝(wosrhip 礼拝)がローマで流布したが,それらは全て,ローマの人々(民衆)によって,等しく真実と考えられた。(それらは)哲学者によって等しく虚偽と考えられ,ローマの行政長官からは等しく有益なものと考えられた(注:人民の統治に利用できるということ)。」この場合,私が念頭に置いている哲学者は,全ての流布している信条は「等しく」虚偽だと言い切るほど極端に走ることはないであろうが,しかし,流布している信条の任意のいかなるものも虚偽を含んではいないというようなことは認めないであろうし,あるいは,たまたま虚偽を含まない信条があったにしても,その幸運な事実は人間精神の能力(知力)で発見することができるということも認めないであろう。哲学的でない(哲学的思考をしない)宜伝家にとって,自分の(行う)宣伝は正しい宣伝であるが,自分と反対の宣伝は虚偽の宜伝である(ということになる)。もし,そのような宣伝家(そのように考える宣伝家)が,双方(賛成及び反対)の宜伝を認めることを信ずるとすれば,それは自分の宣伝が禁止を受ける宣伝になるかもしれないということを恐れるからに過ぎない(注:his = his propaganda)。哲学的観察者にとっては,問題はそれほど簡単ではない。
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Chapter 14: Competition, n.16
I come now to the standpoint of the philosopher as regards freedom of propaganda. Gibbon, describing the tolerant spirit of antiquity, says: "The various modes of worship, which prevailed in the Roman world, were all considered by the people, as equally true; by the philosopher, as equally false; and by the magistrate, as equally useful." The philosopher whom I have in mind will not go so far as to say that all prevalent creeds are equally, false, but he will not allow that any is free from falsehood, or that, if by chance it were, this fortunate fact could be discovered by the faculties of the human mind. To the unphilosophical propagandist, there is his own propaganda, which is that of truth, and the opposite propaganda, which is that of falsehood. If he believes in permitting both, it is only because he fears that his might be the one to suffer prohibition. To the philosophical spectator, the matter is not so simple.
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