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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展 14-09 (松下 訳) - My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第14章 普遍者、個別者、固有名 n.9 - 数的異他性についての議論

(注意: 以下は、ラッセルが後に間違っていると思うようになった考え)

「我々が知覚空間から導き出した数的異他性(numerical diversity)についての議論は、異なる精神(心)の内容についての同様な議論によって強化(補強)されるかも知れない。(即ち、) 二人の人間がいずれも「2+2=4」 であると信じている時、彼ら(二人)が「2」という語や「+(たす)」 「4」「ある」という語に与えている意味は(二人とも)同一であるということ、、また、従って、二人のもつ信念の対象に関する限り、一方の信念と 他方の信念を区別すべき理由はないということは、少なくとも理論的には可能である。それにもかかわらず、二つの実体(entities 存在者)、即ち、一方の人間の信念及び他方(もう一方)の人間の信念の2つの実体が存在していることは、明らかであると思われる。すなわち、ひとつの個別的信念とは、我々が主観(subject 主体)と呼んでよい何らかのものをその構成要素として含むところの一つの複合体である。我々が今考えている場合では信念の異他性を生むものは主観の異他性である。しかし、これら二つの主観なるものは、一般的性質の単なる束ではありえない。二人の中の一人が、「博愛」と「魯鈍」と「ダジャレ好き」という(3つの)特徴 を持つと仮定してみよう。「博愛と魯鈍とダジャレ好き(の3つの性質で構成されたもの)gが、2+2=4であると信じている」と言うの正しくないであろう。そして、一般的性質の多くをさらにつけ加えても、上の文は正しいものにならないであろう。さらに、いかに多くの性質をそこに加えていっても、もう一方の主観(主体)もまた同じくそれらの 特質をもつということが、依然として可能である。 従って、 諸性質は、主観の異他性を構成するものではありえないことになる。二つの主観が異なるというとき、その異なる点はただ、それら個別的主観が他の個別者に対して持つ関係においてであるより他(以外)はない。 たとえば、一方の主観(主体)はそれが他方の主観(主体)に対して持つ関係を、自分自身に対しては持たないというようなことである。 しかし、すべてのものが、両者(両方)の主観の一方に関わり、かつ、それ以外のことは普遍者のみに関わりを持ち、そのことが他方の主観についてもやはり真でありうるということは、論理的には不可能でない(訳注:2つのものがまったく同じ特性を全て持ち、両者間の関係に関わるものだけが普遍的なものである、ということらしい)。従って、たとえ そういう命題に関していろいろな相違が現われても、それらの相違が、二つの主観の異他性を構成するのではないのである(訳注:人物Aは人物Bの左にいるとして、そのことが両者の異他性を創っているのではなく、両者が別々の個物であるというおとで異他性が生じている、ということか?)。それゆえ、主観(主体)は、個別者と考えらなければならず、それらについて述語されうる 一般的性質の集合のいずれとも根本的に異なったものであると考えなければならない(のである)。」

Chapter 14, n.9

The argument as to numerical diversity which we have derived from perceived space may be reinforced by a similar argument as regards the contents of different minds. If two people are both believing that two and two are four, it is at least theoretically possible that the meanings they attach to the words two and and and are and four are the same, and that therefore, so far as the objects of their beliefs are concerned, there is nothing to distinguish the one from the other. Nevertheless, it seems plain that there are two entities, one the belief of the one man and the other the belief of the other. A particular belief is a complex of which something which we may call a subject is a constituent ; in our case, it is the diversity of the subjects that produces the diversity of the beliefs. But these subjects cannot be mere bundles of general qualities. Suppose one of our men is characterized by benevolence, stupidity, and love of puns. It would not be correct to say: 'Benevolence, stupidity, and love of puns believe that two and two are four.' Nor would this become correct by the addition of a larger number of general qualities. Moreover, however many qualities we add, it remains possible that the other subject may also have them; hence qualities cannot be what constitutes the diversity of the subjects. The only respect in which two different subjects must differ is in their relations to particulars: for example, each will have to the other relations which he does not have to himself. But it is not logically impossible that everything concerning one of the subjects and otherwise only concerning universals might be true of the other subject. Hence, even when differences in regard to such propositions occur, it is not these differences that constitute the diversity of the two subjects. The subjects, therefore, must be regarded as particulars, and as radically different from any collection of those general qualities which may be predicated of them.
(掲載日:2022.01.25/更新日: )