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バートランド・ラッセル自伝 第1巻第3章 - ジョージ・トレヴェリアン (松下彰良・訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第3章(ケンブリッジ大学時代)累積版  総目次

*写真出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981.

 当時トレヴェリアン3兄弟(松下注:Charles, Robert, and George Trevelyan)がいた。(3人のなかでは)長男のチャールズ(Chrales Trevelyan, 1870-1958: 英国の政治家、第一次(= 1924年)及び第二次(=1929-1931)労働党内閣で文部大臣)が才能の点で最も劣っていると、我々全員考えていた。私は、次男のボブ(松下注:Robert Calverley Trevelyan, 1872-1951: 詩人であり、翻訳家 /Bob は Robert の愛称)と特に親しかった。彼は、それほど霊感に満たされているわけではなかったが、非常に博学の詩人となった。しかし彼は、若かった頃、奇抜なユーモア(のセンス)をもっていた。かつて私たちが(イングランド北西部の)湖水地方で読書会を開いていた時のこと、エディー・マーシュ(訳注:後のサー・エドワード・マーシュ:チャーチルの個人秘書)が寝すごし、寝巻姿(寝間着の長シャツ)で、朝食の用意ができているかどうかを確かめに下に降りてきた。彼は、寒々とした、みじめな姿だった。ボブは彼に、「凍えた白衣の幽霊 cold white shape」と命名した。そうしてこのあだ名が長い間彼につきまとった。

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(一番下の)ジョージ・トレヴェリアン(George M. Trevelyan, 1876-1962:英国最大の歴史家の一人、1940~1951の間、トリニティ・カレッジの学寮長/右写真の人物) は、ボブ(= Robert)よりかなり年下であったが、私が彼を良く知るようになったのは、後になってからのことであった。ジョージとチャールズは、恐るべきウォーカー(= Wakler)であった(注:「散歩好き」と訳すと少し歩くだけの印象をあたえてしまう。)。かつて、私とジョージが、イングランド南西部のデヴォンシャー州内を徒歩旅行した時、彼に一日25マイル(= 40km)歩くこと(で満足すること)を約束させた。彼はその旅行の最後までこの約束を守った。その後(徒歩旅行終了後)、彼は、「僕はこれからもう少し歩かなければならない」と言って、私のもとを去っていった。 また、別の機会、私が独りで徒歩族行をしていた時、夕方にリザード(イングランド最南端にあるリザード岬 Lizard Point のある Lizard のことだと思われる。/日高氏は、'リツァード'をホテル名として訳されている)に到着し、部屋が空いているかどうか(ベッドが空いているかどうか)、尋ねた。するとホテルの者が、「あなたは、トレヴェリアンさんですか」と応答した。私は、「いいえ違います。あなたがたは彼を待っているのですか」と言った。これに対し彼らは、「そうです。トレヴェリアンさんの奥さんはもうお着きになっておられます。」と言った。これには驚かされた。なぜなら、その日は彼の結婚式の日であると、私は、知っていたからである。彼女は独りぼっちで寂しそうであった。彼は、丸1日全然歩かないではとうてい耐えられないと言って、花嫁をツルロTruroに残して行ったからであった。彼は40マイル(約60km)を記録的な(短)時間で歩き、完全に疲れきって、夜10時頃に(ホテルに)到着したが、新婚旅行の始まりとしては、いささか変わっていると私には思われた。1914年8月4日(日高訳では、4月4日になっているが、単なる誤植か?)、私は彼と口論しながらロンドンのストランド街を一緒に歩いた。その後、彼が(トリニティ・コレッジの)学寮長(日高氏は、'修士'と誤訳されている)になって以後、私が1944年にトリニティ・コレッジに戻って来るまでの間、彼とはたった一度会ったきりであった。彼がまだ学部生であった頃、ある日彼は、トレヴェリアン家の者は決してまちがった結婚をすることはないと、(次のように)釈明した。彼は言った「わが家の者は、30歳になるまでは結婚はしない。30歳になったら、センスと金の両方とも兼ね備えた女性と結婚する」。 時々恵まれない時代はあったが、私は、一度もこの処方箋に従っていればよかったと想ったことはなかった。

Then there were the three brothers Trevelyan. Charles, the eldest, was considered the least able of the three by all of us. Bob, the second, was my special friend. He became a very scholarly, but not very inspired, poet, but when he was young he had a delicious whimsical humour. Once, when we were on a reading party in the Lakes, Eddie Marsh, having overslept himself, came down in his night-shirt to see if breakfast was ready, looking frozen and miserable. Bob christened him 'cold white shape', and this name stuck to him for a long time.

George Trevelyan was considerably younger than Bob, but I got to know him well later on. He and Charles were terrific walkers. Once when I went a walking tour with George in Devonshire, I made him promise to be content with twenty-five miles a day. He kept his promise until the last day. Then he left me, saying that now he must have a little walking.
On another occasion, when I was walking alone. I arrived at the Lizard one evening and asked if they could give me a bed. 'Is your name Mr Trevelyan?' they answered. 'No,' I said, 'are you expecting him? 'Yes,' they said, 'and his wife is here already.' This surprised me, as I knew that it was his wedding day. I found her languishing alone, as he had left her at Truro, saying that he could not face the whole day without a little walk. He arrived about ten o'clock at night, completely exhausted, having accomplished the forty miles in record time, but it seemed to me a somewhat curious beginning for a honeymoon. On August 4, 1914, he and I walked together down the Strand quarrelling. Since then I saw him only once, until I returned to Trinity in 1944, after he had become Master. When he was still an undergraduate he explained to me once that the Trevelyans never make matrimonial mistakes. 'They wait', he said, 'until they are thirty, and then marry a girl who has both sense and money.' In spite of occasional bad times, I have never wished that I had followed this prescription.