三浦俊彦による書評

★ ジャン・フェクサス『うんち大全』高遠弘美訳(作品社)

* 出典:『クレア』1998年4月号掲載


あるいは アマゾンで購入
 いわゆる「シモネタ」にも二種類ある。「キワドイ」話、つまりセックス関係はそれなりに需要供給が釣り合っているというか、格調が認められてるというか、メジャーですよね。それにひきかえ「キタナイ」話、つまり糞尿関係となると、どうもマイナー感が否めない。子供っぽいオフザケにしか見られず市場価値に乏しいというか、文化の中にポジションを与えられない傾向がある。セックスの方は建前上「愛」が絡んでいるのに、ウンコはいつもその場限り、何も考えずとも括約筋が勝手に、しょせん下等動物といっしょだもの、というわけだろうか。
 しかしこの、下等動物といっしょ、という部分にこそ、ウンコの文化的パワーが秘められているのでは。人間、ウンコしている最中ほど、自分が無益無力な糞袋にすぎないと痛感する時はない。そういうときこそ逆に、「あえて心ある人間として生きる」難しさとほろ苦さと哀しさと誇らしさが実感できるもんじゃないかなあ。
 そういう悟りの瞬間のために、この『うんち大全』がある。ツルンと丸っこい幼児語「うんち」と、ゴツゴツいかめしい漢語の風格まとった「大全」とをくっつけたなんともアンバランスな、筋骨隆々たる腹筋豊かな、厳かなお腹が情けなくクダリかけユルミかけたみたいな不安定なタイトル。独立した九十一の短いエピソードと、百七十葉ものモノクロ&カラー図版とで構成されたこの百科全書は、糞袋としての孤独感と悲哀をきらびやかに陳列してみせるうちに、人間ってやつぁいじらしいなあ、かわいいなあ、面白いなあ、不思議だなあ、そして偉大だなあ……なあなあしみじみ考え直させてしまう強引な書物なのだ。
 17世紀を中心として、紀元前から二十世紀末。フランスを中心として世界各地。糞尿にまつわるありとあらゆる種類の話題が、次々と脈絡なく並べられる。ラブレーやアポリネールなど文学作品中の糞尿エピソードもときに混じるが、ほとんどは歴史の隅に記録された事実群。広く浅い雑然とした並べ方がいい。窓から路上に糞尿を捨てるのが普通だったヨーロッパの町々の風景。底に眼が描かれたおまる。穴あき椅子。糞尿占い。郵送された糞尿爆弾。宮廷女性の間で流行った浣腸。患者のウンコを味見して診断することを義務づけられた医師たち。ウンコを使った呪い殺しの術。政治的中傷に使われた糞尿語。ウンコ話でいっぱいのモーツァルトの手紙。人糞が悪魔を追い払うと信じたルター。ウンコを異様に怖れたローマ皇帝ティベリウス。街路で桶を掲げ排泄客を待つ業者。桟敷から下の客席に自分のウンコを投げた三人の貴婦人。二十世紀初頭に流行したウンチングスタイル写真の絵葉書……。日本の話題もちらほらと。ブルセラ・ショップで少女のオシッコが一万五千円、ウンコが三万五千円くらいで売っているというとんでもなくウラ事情通的な記述まである。地域も時代も節ごとにあちこちに飛ぶ。政治・戦争から宗教、恋愛・日常生活まで、不統一この上ない。まさに雑食動物ホモサピエンスのはらわたの中、混沌とした消化不良ウンコの組織そのものか。
 そもそも僕たちは、いつからウンコの話に臆病になったのだろう。幼稚園の頃までは、みんなウンコやオシッコやオナラが大好きだったはずなのに。理由なく抑圧された興味を掘り起こすことが、文化を、人間を新たな角度で理解する鍵なのだとすれば、「糞尿」こそが二十一世紀を開く重要アイテムであることは確実だ。
 本書には淫猥なイメージや悪趣味な汚物描写は一つもない。さらっと乾いて、むしろ清潔すぎるほど。もっとどぎつく、リアルな話題が匂いたつような本であってほしかったとも思うけれど、雑談のタネ本としてはこのくらいがちょうどいいかもしれない。しばしば陰湿な下心に利用されがちなセックスシモネタは卒業して、そう、男女の余計な牽制も猜疑心も入り込む余地のない、老若男女みな同質平等なウンコシモネタで盛り上がって円滑円満、てスタイルこそが、21世紀の社会人のファッションになるだろう。扉の写真、海岸で無心に排便する画家ロートレックの白いお尻を眺めていると、しみじみそう感じるはずです。

楽天アフィリエイトの成果(ポイント)は本ホームページのメンテナンス費用にあてさせていただきます。
 ご協力よろしくお願いいたします