三浦俊彦による書評

金井美恵子『軽いめまい』

* 出典:『東京新聞』1997年5月18日付掲載


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 あえかなるタイトルである。実際、主人公の三十代の専業主婦の身には、台所の蛇口から流れる水が渦巻くのを見つめているうちに襲ってくる、吸い込まれるような「軽いめまい」以上に大きな事件は起こらない。
 彼女の生活は、幸福な暮らしの条件をすべて満たしている。夫婦仲はよく、二人の子どもはすこやかに育ち、友人に恵まれ、単調な家事もいそいそと楽しく……。それでもふと、 夫の何でもない言葉の端に苛立ち、女子高以来のグループの集まりでは自分だけが専業主婦であることに劣等感を覚え、他のみんながカジュアルなファッションで自分はよそいきの服装だったことが後悔の種となり……。
 何かが、噴出しそうなのだ。自己批判の種が全身に発芽しかかっている。しかも主人公のまわりでは知人の不倫あり離婚あり、同じマンションで主婦の自殺ありと、みんなそれなりに劇的な決断にまみれて生きているらしい。取り残されたような、台風の目の中に安住しているようないわば中心への疎外感。どこからどうみても幸福な、働きに出なくてよいことを友人に羨まれもする主人公は、自分が何に苛立ち焦っているのかわからない。その虚ろな自己問答が、不意のめまいとなって彼女の心地よい足もとを脅かすのだ。
 この境遇にして人はなお自意識の疼きに悩まされねばならないというのは、平穏な日常の姿を借りながら全く逆に、人間ギリギリの極限状況を物語っていると言えるのではないだろうか。そう。この小説を私は、一級の恐怖小説として読んだ。これが人間であるという恐怖、何かが今にも爆発するのではという予兆の恐怖、いややはり何も起こるまい、幸せという絶対価値に包装された市民生活とはそんなものであらざるをえまいという恐怖。金井流の這うような蛇行文体は、蛇口からの水流のひらめきに絡みとられた主婦の視線に一瞬映じた、人生永遠の屈折を活写するのにどうもこれ、確かに最適の媒体である。