三浦俊彦「結ぼれ、了解、異文化、鼠−R. D. レインの視線−
『比較文学・文化論集』(東京大学比較文学・文化研究会)1985vol.1-2(通号n.2)pp.37-52 掲載
 
(p.16)
 私は、自分の生活の相当部分を、楽しめないコミュニケーション、誤ったコミュニケーション、またはコミュニケーションの破綻を研究することに費してきた。(中略)しかし、人間間のコミュニケーションのもう一つの側面 −幸福な側面に関しては、これほどの注意が払われてこなかったようである。(中略)それゆえ、この心楽しい、また真剣な喜びに満ちた諸々の対話を紹介することは、私にとって大きな喜びであり、慰めでもある。(中略)ここでは嫌悪、悪意、恨み、嫉妬、敵意、羨望、その他もろもろの人生の影の部分が勝利を誇っているようには思えないのである。
 そう−まさに例えば、6歳のナターシャが『好き? 好き? 大好き?』の新刊本を手にとって、「この本 お父さんが書いたの? <<−そうだよ。>> とてもきれいに印刷できてるのね。(ページをめくりながら)だけど書いてあるところあんまりないわ。ほらこのページなんかほとんど何も書いてないわ。このページも。こんなに少ししか書いてない本ってわたしはじめてみた。これわたしがみたなかでいちばん馬鹿な本みたい」(1976年10月。Conversations with Children, p.85)と、『好き?・・・・・・』の紛糾した悲惨な対話の存在そのものに対し、テキストの表層的外貌を silliest と嘲弄するという形で指弾する姿に、無垢な喜びが「人生の影の部分」に勝利を収める光景の象徴表現を読みとっても、あながち誤りとはならない筈だろう。また、より直截には、『生の事実』エピローグにレインはかく語るのである。
私は正しく(コレクトリー)生きたい。正しく生きることが間違っているはずがない。正しい生き方があるにちがいない。その生き方は人生の本質に一致し、真実(ケイス)であるものに一致するはずである。(p.135 下線イタリック)(次ページに続く)