書評目次
三浦俊彦による書評
★ スタニスワフ・レム『虚数』(国書刊行会)
* ボツ書評
虚数 (文学の冒険シリーズ) [ スタニスワフ・レム ]
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『S』編集部 K様
ご依頼のスタニスワフ・レム『虚数』を読み終えました。読み終えて、考え込んでいるところです。というか、実は、困り果てているところです。
いえ、解釈がむずかしいとか、そういう悩みではないのです。予想したより理解しやすかったし。実は、率直に言ってこの本、私にとって、全然、面白くなかったのです。
これは困りました。同じ「文学の冒険」シリーズに入っているレムの『完全な真空』はあれほど面白かったのに。どうしたことだろう。心底、ショックを受けております。
『完全な真空』とあまりに似ているがための失望なのでしょうか? 逆に、違っているがための期待外れだったのでしょうか? どうも両方のように思われます。
『完全な真空』は、架空の書物への書評集でした。痛快でしたね、あれは。本文を奪われたままそれへの解釈や評価を笑いながら追ってゆくうち、主題対象を「意味」の彼方へ温存しながらたえず代理的周辺のみなぞり回る言語なるものの本質に、どんどん深く気づかされていったものです。『虚数』の方は架空の本の序文を集めたものですよね。序文も書評と同じく、本文に対して代理的周辺の地位にあると言えるでしょう。しかも最初のふたつの序文は、著者とは別の人物が書いたことになっているため、ほとんど書評のコンセプトと一致しています。
もちろん、序文は外からの批評ではなく、内からの地続きの補足ですから、書評よりも代理度・周辺度は低いというべきでしょう。空虚なる中心(本文)を暗示する機構も根本的に異なるはずです。つまり本文に対してメタレベルでもなければ同レベルでもない、準メタレベルともいうべき微妙な均衡で揺れていなければならないはずです。ところが少なくともはじめの二作品に関しては、文体上、『完全な真空』の諸作品との意味論的相違を見て取ることができないんです。単なる繰り返し。弱りましたね、どうも。
内容的にはどうでしょうか? セックスしている人間をX線で撮った写真集、細菌に英語を教育する過程で発見された彼らの詩作能力・予知能力もしくは透視能力についての研究書、ですか。これを「奇想」と呼ぶのはたやすい。だけど、アイディアがいかにも恣意的というか、単発のまま、収束しないのですね。『完全な真空』の大半の作品では人間的状況の中に奇想が組み込まれた感じでした。ところが『虚数』では物語性は皆無、人間も動かず、アイディアが孤立して、そこに淡泊な諸理屈がしがみついているだけなのです。準メタの微妙さにはなおさら無自覚な、抽象的理論づけだけが。ダメですよ、これは。
人間の姿も見えなければ意味論的独自性も輝かないとなると、「序文集」特有の意義はいったい何? この不満は、三番目『ビット文学の歴史』になると多少やわらぎます。コンピューターの創ったさまざまな文学作品、についての研究書の序文。これも序文ならではの意味論は達し損なっていますが、内容がいくらか。とはいえ、いかにもドストエフスキーが書きそうな偽作をコンピューターが発表するという「奇想」は、どんなもんでしょうかね。現にファン・メーヘレンによるフェルメールの創造的偽作など、ある芸術家の意味空間の「ミッシング・リンク」を補って隙間を埋めるという試みは人の手で歴史上幾度となく繰り返されてきたわけですし、作者がコンピューターだという転換によっても、このアイディアが驚くべき奇想に化したとは感じられないのです。現実をさほど超えていないのですね、この電脳文学史は。
四番目の、未来予測による百科事典の販売パンフレット。これも多少愉快な部分はありました。が、あまりにムック的な戯作スタイルはともかくとして、たとえばリモート・コントロール方式改訂という「奇想」にしても、インターネット電脳書店の現実からするといかにも雑巾臭い。そんな苦情は無いものねだりでしょうか。しかし未来予知の百科事典だったはずですし、なにしろレムですから、電脳書店程度に洗練された装置は先取りしてひねってほしかったというのが本音ですね。 というわけで不満を引きずったまま、最後の長大な作品、巨大天才コンピューターGOLEMが学者・専門家に向かって行なった講義録『GOLEM XIV』に期待しようということになったわけです。ところが……。
いや、まいりました、これには。進化批判、人格批判、知性論などが展開されるのですが、いかんせん、長すぎる。抽象的すぎる。ありきたりすぎる。おまけに、わかりやすすぎる。本能の欠陥としての知性、利己的遺伝子、量子力学に抵抗したアインシュタイン批判……とりとめのない講義の中に通俗科学書以上の洞察が全く灯ってないのが痛い。人知を超えたコンピューターの託宣でしょう、凡人には理解不能の、ナンセンスに近づく代物となるはずだったではないでしょうか。(むろん、GOLEMはわざと人間に理解できるレベルまで降りて手加減して喋っていることになってますが、それにしてもです。)
この情報の貧しさは……。「情報洪水」に警鐘を鳴らし続けるレムの逆説的演出ですか? そういう手は勘弁してくださいって。
ただ、最後にきてちょっとホッとしました。人類を隷属から救うためGOLEMを破壊せんとする過激派集団の行動が記述される「あとがき」。人格を持とうが持つまいが、やっと人間が動き出したんで。GOLEMと、もう一段優れたコンピューター「正直アニー」との仮想反応の差異もなるほどって感じです。「なるほど」止まりですけどね。
誤解しないでください、ここまで書いてきたのは『虚数』への酷評ではありません。というのも、たとえば読売新聞で巽孝之さんが本書を称揚し「結末には、めくるめく知的衝撃が待っている」と証言している有様を目にしては、それに依頼時の電話でKさん、あなた自身が本書に感銘を受けた旨表明しておられたことも思い合わせると、『GOLEM XIV』だけでも七時間かけて精読しておりながら「めくるめく知的衝撃」とやらがいったい何を指すのか、候補の候補すら思い浮かばぬこの私が劣等読者であることに疑いの余地はないのですから(皮肉でなく)。この文章は『虚数』批判ではなく、評者としての私の不適格ぶりの露呈にしか過ぎなかったのです。
というわけで、拙文が書評の資格で『新潮』に載ることには私自身大いなる疑問を抱いております。ついては、これをエッセイの枠に移していただくか、またはいっそのことボツにしてくださってかまいません(本心です)。不掲載になれば、この文章は「実在の書物に対する架空の書評」であることになり、それこそレム的、いやアンチ・レム的書評となり、『虚数』の書評として最もふさわしい書評となるではありませんか。
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