書 評
★「観測選択効果と多宇宙説-伊藤邦武『偶然の宇宙』(岩波書店,2002年)について-」
 『科学哲学』36巻1号(2003年7月刊)掲載


The fact that our Universe is fine-tuned for life is widely believed to be evidence in favor of the world-ensemble hypotheses, only if the observational selection effect is taken into account. But in Ito's recent book this type of reasoning is criticized as illusory due to the inverse gambler's fallacy, and the observational selection effect is denied its supposed theoretical value. We show that Ito's analogical examples are irrelevant and his arguments are mathematically wrong. There are actually some philosophical insights the observational selection effect would bring, concerning not only the world-ensemble cosmology but also the nature of consciousness, self, identity, and especially the causal theory of reference.

 

 20世紀の哲学的論争の主流を占めた「言語」「因果」「意識」などと比べて、「宇宙」は、今日の大多数の哲学者にとって切実なテーマと感じられていないようだ。しかし古来、宇宙は形而上学の中枢にあったのではなかったか。キケロ、アクィナス、パスカル、ロック、ヒュームといった、奇跡論や確率から「宇宙」の不思議を考察した知的伝統を概観したのが本書の第Ⅰ部である。
 第Ⅱ部は、第Ⅰ部に見た宇宙論的思弁の科学的開花と言うべき20世紀の宇宙像、とりわけ「多宇宙」とその対立仮説「神」の両立可能性に焦点を当てた貴重な試みだ。中枢をなす第5章では、一部の科学者・哲学者が言い立てるほどには「人間原理」の「観測選択効果」が内実ある装置でないことを立証しようとする。無数の宇宙が存在するという「世界のアンサンブルworld ensemble」の信頼性を観測選択効果が補強する、という説を批判するわけだ。この宇宙が、人間のような知的生命の誕生に必要な物理定数と初期条件の組み合わせを実現しているという、きわめて確率の低い「ファインチューニング(微調整)」の不思議を、「世界のアンサンブル」(以下、本書に倣ってWE仮説)によって説明するさい、「観測選択効果」が不可欠かつ有効だという通説を論駁するのである。逆に言えば、驚くべき「微調整」は、観測選択効果を考慮するとWE仮説を信ずる根拠となる、という理論を否定するのである。
 しかし残念ながら、本書第5章が提示する論述は、ほぼすべてが無効である。観測選択効果の役割を検討するさい、なぜか観測選択効果を無視した議論のみに依拠し続けているからだ。以下、主に本書第5章の議論の過誤を摘出し、本書が論じそこねてしまった発展的な論点をも示唆することにしたい。

 

 人間原理について、2種類の正反対の誤解が流布している。一つは、人間原理が科学に人間中心的・目的論的パラダイムを復興させたとする誤解。もう一つは、人間原理はトートロジーにすぎず、説明力を持たないとする誤解。前者は、人間原理が本来持つはずのない宗教的含意を読み込み、「宇宙は知的生命のために存在する」といった疑似科学に陥る。それに対し後者は、人間原理が本来持つはずの説明力・予測力を否定し、とりわけWE仮説のような思弁的とも見える宇宙観を戒めようという過剰に禁欲的な態度だ。前者は、科学特有の還元主義に嫌気のさした人々に多く見られ、後者は、慎重な科学主義者の間に見られる。本書が体現しているのは、後者の種類の誤解である。
 人間原理の根幹にはベイズ的推論があるが、本書は、WE仮説の確証にベイズ的推論を適用できないという前提に立つ(p.176)。この見解は宇宙物理学の大勢に反しているので、詳細に吟味せねばならない。本書は、微調整という証拠からWE仮説を確証する論証パターンを、主に二つのアナロジーによって提示している。まず、ジョン・レスリーの魚の例(Leslie,1989)を見よう。
 湖で23.2576インチの魚が釣れた。一匹釣り上げられた魚が他のどの長さでもなくたまたまちょうどこの長さであるというのは、きわめて低い確率の出来事である。ではこのことは説明を要する不思議なことだろうか。そんなことはない。どんな魚もある特定の長さを持っていなければならないからだ。
 しかし今、この魚を釣った罠が、23.2576±(百万分の1)インチの魚だけ捕獲できるタイプの道具であることが新たに判明したとしよう。すると途端に、魚が釣れたという事実は説明を要する不思議な出来事となる。説明は次の二つのどちらかとなるだろう(注1)。

 A.この湖の魚はみなこの長さである(あるいは、この一匹だけがいた)。
 B.この湖には、広い範囲にまたがる多様な長さの魚が泳いでいる。

 Aは、ただ一通りの魚の長さがちょうど23.2576±(百万分の1)インチの幅に入るよう(観測者が誕生できるよう)になっていたという考えで、罠に合った魚をわざわざ放流してくれた者(神)の意図を想定しないかぎり、魚が獲れたのは驚くべき偶然ということになる。Bは、魚の長さはまちまちであり(物理定数と初期条件はランダムであり)そのうち観測されうる魚(私たちの住むこの宇宙)だけが観測されたのだという考えで、WE仮説に相当する。伊藤氏は、この譬え話について、次のような難解なコメントを述べている。

 このように極端に限定された性質をもつ対象だけを選びだすプロセスは、サンプルの選出という性格をそもそももっておらず、単なる特定の対象にねらいをさだめた選出を意味するにすぎない(p.169)

 23.2576±(百万分の1)インチの魚だけ捕える狭い罠と、10インチ以上の魚だけ捕える大まかな罠とで、サンプルの選出という性格上違いを認める理由は一切述べられていない。もちろん狭い罠は、現実には何も選び出せない可能性が高いだろう。が、何も選び出せない可能性があるのは大まかな罠も同様であり論理的相違はない。しかもそうした「空なる選出」もサンプルの特殊な選出と言うべきであり、何かを選び出せたか否かが、母集団の実相を推測する手掛りとなるはずだ。ところが伊藤氏は、続けて次のように述べる。

 このような道具によって、ある長さの魚が釣れたという事実から、湖に多様な長さの魚が泳いでいるであろうと推測することは、この事実を証拠とした関連的検証ではなく、むしろ、「一般に湖には多様な長さの魚が泳いでいるものである」という、目の前の事実とは関係のない背景的知識によって成立したものであることになる。(p.169-70)

 これは完全な誤りである。ベイズの定理を適用して実際に計算してみよう。

 「この湖には同じ長さの魚だけがいた」……仮説S
 「この湖には多様な長さの魚がいた」……仮説M
 23.2576±(百万分の1)インチの魚だけ獲れる罠に魚がかかった……事象E

とする。Eが発見される前(あるいはEを考慮しない場合)の「一般に湖には多様な長さの魚が泳いでいるものである」等の背景的知識にもとづいたMとSの事前確率の比をMの事前信頼度とし、Eを証拠として採用した場合の事後確率の比を事後信頼度とする。EがMの検証に関連しているかどうかは、事後信頼度P(M|E)/P(S|E)が事前信頼度P(M)/P(S)に比べて変化しているかどうかによって判明するはずだ。

 P(M|E)=P(M∧E)/P(E)=P(E|M)P(M)/P(E)
 P(S|E)=P(S∧E)/P(E)=P(E|S)P(S)/P(E)
 P(M|E)/P(S|E)=P(E|M)P(M)/P(E|S)P(S)
 =P(E|M)/P(E|S)×P(M)/P(S)
 ここで P(E|M)≒1  P(E|S)≒0 だから、
 P(M|E)/P(S|E)≫P(M)/P(S)

 こうしてEは、Mの信頼度を大幅に増加させ、Mを確証している。Mが真だろうという推測は「目の前の事実とは関係のない背景的知識によって成立」する、という伊藤氏の言が誤っていることは明白だろう。
 よって、次の記述も同じ誤りを犯していることになる。「選択効果が特定の対象だけを選択する実質的な効果であると解釈しても、世界のアンサンブルという仮説の検証にはきいてこない。むしろ、このことを検証するものがあるとすれば、それは、世界には多様な宇宙が複数含まれているという背景的な知識であり、この知識自体は物理学内部の議論によって、別の局面から検証されていなければならない」(p.170)。物理学内部の議論によって検証される「世界には多様な宇宙が複数含まれているという背景的な知識」は単なる事前確率P(M)を持つにすぎず、そこからEに条件付けられることによって「世界のアンサンブルという仮説の検証」ができることは、魚の譬え話と同様である。

 

 魚獲りの例は、適切な譬え話に対してベイズの定理をなぜか適用しそこねたことによる誤謬だった。伊藤氏のもう一つの譬え話であるサイコロの例は、ベイズの定理の正しい適用でありながら、そもそも譬え話の設定が的外れであるため観測選択効果の議論になっていないという間違いである。
 この譬え話は、確率の直観的判断が陥りがちな「逆ギャンブラーの誤謬」を指摘したイアン・ハッキングの論考(Hacking,1987)にもとづいている。賭場に私が入っていったら、ちょうどそのときの振りで6-6が出ていた。6-6は1/36の確率しかないから、たった一度振って出ることは期待しがたい。さて、よりによって私が入っていったときにこの目が出たという事象は、「これまで何度もサイが振られていた」という仮説を確証するだろうか?

 「これがただ一度の振りである」……仮説S
 「これまで何度もサイが振られていた」……仮説M
 賭場に私が入ったちょうどその回に6-6が出ていた……事象E

とし、魚獲りの場合と同じ公式にあてはめよう。

 P(M|E)/P(S|E)=P(E|M)/P(E|S)×P(M)/P(S)

 ここでEがMを確証する、つまりP(M|E)/P(S|E)>P(M)/P(S)とする直観を、ハッキングは「逆ギャンブラーの誤謬」と呼んだのだった。しかしこの直観は本当に誤謬なのだろうか。二つのシナリオを考えよう。

 A.まず、観測選択がない場合(ファインチューニングがない場合)。
 私は自由意思で適当なときにフラリと賭場に入っていったのであり、36種類のうちどの目を見る可能性もあったという場合である。
 P(E|M)=1/36  P(E|S)=1/36
 よって、P(M|E)/P(S|E)=P(M)/P(S)

 たった今6-6が出るEの実現する確率は、SによってもMによっても同じく1/36にとどまっているので、Eを知ったことによって何の説明も供給されず、EはMを確証しない。これは、どんな長さの魚でも獲れる罠の場合に相当する。その罠にたまたま3.2576インチの魚がかかったからといって、P(E|M)=(E|S)≒0 ゆえに、EはMを確証しないのである。

 B.次に、観測選択がある場合(ファインチューニングが発見された場合)。
 私はずっと隣の酒場で酔いつぶれていたのだが、揺り起こされて賭場に入っていった。すると6-6が出ていたのだが、聞いてみると「6-6のときのみ私を起こして連れてくることになっていた」という。すると計算はこうなる。
 P(E|M)≒1   P(E|S)=1/36
 よって、P(M|E)/P(S|E)≒36P(M)/P(S)
 >P(M)/P(S)
 EはMを確証する。

 観測選択効果がEの内容を6-6に限定しているため、P(E|M)は観測の実現確率そのものと一致する。私は6-6が出るまで待たされていたわけだから、Mのもとではいずれ6-6が現われ、ほぼ確実に観測に至る。一方Sのもとでは観測が実現せずに終わる確率が高かった。観測選択効果が効いてくる場合は、このように、ハッキングの言う「逆ギャンブラーの誤謬」は全く誤謬ではない。6-6が「これまで何度もサイが振られた証拠」と考えるのは合理的なのである。ところが不思議なことに伊藤氏は、Aの設定しか論じておらず、肝心の観測選択効果が入ってくるBのシナリオを終始無視し続けている。

 6-6の目について当てはまることは2-2の目についてもあてはまる。(中略)WE仮説そのものの説明力にとっては、前提となるデータがわれわれの宇宙であるかいなかは無関係である。(p.178)
 よくシャッフルされたトランプのカードが順に並べられたところ、それがスペードのエース、スペードの2、スペードの3、と順番にきれいにつづいていって、最後にダイヤのキングが並んだとすれば、彼らは驚嘆の叫びを上げることであろう。(中略)しかし(中略)カードはどんな並び方をしても――たとえば、クラブの7、スペードの2、スペードのジャック、ハートのエース、クラブの5、……と「ばらばらに」つづいても――その珍しさの点からいえば、右の「きれいな」並び方とまったく同等である。違いはただ、前の並び方が、われわれが52枚のカードを区別するために想定した順序に、たまたま合致しているということにあるだけである。同じように、ダイスの面の結果も、面どうしを区別するために作ったシステムのうえで、最大の数字が並んで出たという事実だけに意味があり、それがたとえば2-2の目と同じ確率であることには、特別の意味はない。(p.183-4)

 データとしてのわれわれの宇宙の特別さが他の宇宙の特別さと同等でしかないとする前提、6-6の特別さが2-2の特別さと同列であるような設定では、観測選択効果を論じたことにならないのだ。2-2等を観測する可能性はないこと、観測によって目が「たまたま」6-6として取り出されたのではなく「必然的に」6-6であるべく観測結果が絞られていること、これが観測選択効果なのだから。この認識論的論理を、珍しさの観念やシステム上尊重された順序といった規約的事情に還元することは間違っているのである。

 

 第5章に見られる観測選択効果への無理解(注2)は、多かれ少なかれこの章に依存する第Ⅱ部、ひいては本書全体への理論的評定を不可能にしかねない重大な誤りである(本稿が他の章を論評対象から除外したのは、主に私の哲学史の素養不足のためなのだが)。第5章については呈したい苦言がまだ十数種類あるけれども、その中から①論拠の曖昧化、②価値論の尚早な導入、③論点の看過、④不正確な推断による論点先取、各々の具体例を摘出したい。
 ①WE仮説をめぐる推論において観測選択効果は働いているがWE仮説を支持する作用はないと論じているのか、そもそも観測選択は働いていないと論じているのか、第Ⅱ部を通じ曖昧なままになっているが、その主因は、第Ⅱ部ではベイズ式による論点の整理がなされなくなっていることにある。

 〔逆ギャンブラーの例では〕事前確率から事後確率へのベイズの定理を応用した確率計算が適用できるのではないか、と考えられるかもしれない。しかしながら、ベイズの図式が表すのは、これまでの経験によって得られた仮説の事前確率に、新たな経験が条件づけられることによって、仮説の確率が事後確率へと改訂されるメカニズムであったことを思いおこせば、それがここでの確率の変化(という錯覚)には無関係であることが理解できるであろう。(p.176)

 人間原理の先駆的思考を扱った第Ⅰ部で活用されていたベイズ式が、第Ⅱ部に入るや「無関係」とされるにはよほどの説明が期待されてよいが、論拠の曖昧なぼかされ方はあの「狭い罠はサンプル選出をしない」(p.169)の件と同様だ。ベイズ式が使えない理由は何なのか? 前節のシナリオAのように事前確率と事後確率が同じ値のままでは、ベイズ式を適用したことにならない、という意味だろうか。それは、足し算の結果は必ず数が増えねばならぬと言うようなもので、誤りである。あるいは単に、主観確率を変化させる「新たな経験」がないという意味だろうか。これも誤りであることはシナリオBで見た通り。6-6の目撃自体は確率改訂に関与しないにしても、6-6だけが観測されうる仕組みになっていたという微調整の察知(錯覚でもかまわない)こそは「新たな経験」なのである。
 物理定数と初期条件の幾重ものファインチューニングがなければ観測は生じないという事実は、パスカルやヒュームの時代には知られていなかった。生命が微調整の賜物であるとはうすうす理解されていただろうが、それは本書第Ⅰ部が描写したように思弁の域を出なかった。微調整が発見されたのは20世紀である。電子の質量や核力、ハッブル定数、重力定数などの絶対値の詳細な知識そのものは別段WE仮説を確証する「新たな経験」ではない。が、それら定数のごく微小な変更がいかなる影響をもたらすかという知識は、紛れもない「新たな経験」だ(p.144)。ここで観測選択効果が思弁から方法へ昇格した。本書は当然、その科学史ドラマを活写すべきではなかったろうか。
 ②ところが第Ⅱ部は逆に、観測選択効果をあっさり瑣末化してしまう。「純粋に論理的観点からのみ考察すると、人間原理的偶然の一致、あるいは宇宙のファイン・チューニングという事実に、観察による選択効果ということをつけ加えてみても、WE仮説を強化するどころか、かえって問題を混乱させてしまうだけであることが判明する」(p.183)。観測選択効果を「つけ加え」そこねて「問題を混乱させて」いたのはまさに伊藤氏の論述であった。ファインチューニングへの驚きは「『われわれにとってのかけがえのない効用』という観点から生み出されたもの」(p.185)とするのは、ブランドン・カーターら人間原理の主唱者への的外れの忖度である。観測選択効果とは「認識論的なフリル」(p.183)に過ぎないものではないし、「人間という知性的存在の意味や価値を、存在の大いなる連鎖という形而上学的原理のもとで何とか理解してみたいという、形而上学的・神学的な探究への欲求に裏打ちされた驚きに発した議論」(p.185-6)といった茫漠とした価値論的衝動でもない。厳密な検証の方法論なのである(「微調整」以外の経験的証拠によってWE仮説を確証する観測選択効果の応用についてはPage,1999,Bostrom,2002,ch.5を参照)。

 

 ③逆ギャンブラーの誤謬を論じたハッキング論文は、カーターの多宇宙同時並存モデルと、ジョン・ホイーラーの多宇宙継起モデルを区別していた。逆ギャンブラーの誤謬を犯しているのは後者であって、前者は無罪である、と述べているのである(注3)。この論文がMindに掲載されると、次の号で直ちに、3本の批判論文が一斉に論駁した(Whitaker,1988, McGrath,1988, Leslie,1988)。批判の内容は、ハッキングが観測選択効果を考慮しそこねていること、WE仮説のカーター版とホイーラー版とを「逆ギャンブラーの誤謬」の点で区別すべき理由はないこと、主にこの2点である。
 実際、ハッキングは前々節のシナリオAのみを論じ、Bの場合を見落としていた。伊藤氏はハッキング論文に依拠しているわけだが、不可解なのは次の二点である。まず、ハッキングの過ちは多くの場で指摘され続けており、その一つであるレスリーの著作(Leslie,1989)を第Ⅱ部で頻繁に引用しているにもかかわらず、それらへの再吟味を一切せぬままハッキングと同じ所説を反復していること。もう一つは、ハッキング論文に依拠する以上、WE仮説のうち正当とされたカーター版と誤謬とされたホイーラー版の区別を当然論ずるべきであるところ、カーター版にまで黙ってハッキング流批判を敷衍していることである。(ちなみにカーター版をサイコロで譬えるなら、次のような設定になっただろう。「仮説S…この一部屋だけで一度だけサイが振られた。仮説M…多くの部屋で各々一度だけサイが振られた」McGrath,1988,p.267)
 ハッキングの論文は、誤りなりに興味深い挑発的内容を持っている――たとえば時間と空間の奇妙な非対称性(「ここ」については観測選択が働くが「いま」については働かない?)――ので、それへの批判的論評がなされたならば、分析哲学特有の累積的展開の好例となったはずである。しかし本書は無批判的な敷衍にとどまったため、半分正しかったハッキングの議論を全面的に間違った形で紹介したことにしかなっていない。まことに残念である。
 ④WE仮説の承認にとって、逆ギャンブラーの誤謬より重大な留保(p.178)として伊藤氏が挙げるのは、「充満の原理principles of plenitude」である。

 ダイスの複数の面の組み合わせは、確率の大小の違いはあっても、すべて生じる可能性を持っている。/一方、宇宙のアンサンブルという仮説を信じる場合、「この宇宙」のファイン・チューニングという事実には、この保証は必ずしも含まれているとはかぎらない。たしかに、たとえばリースにならって、この宇宙を「六つの数」によって支配されたものであると仮定した場合、これらの数の値それぞれの可能な幅から、この宇宙の基本的な物理的条件の信じられないほどの低い確率は算定される。しかし、この低確率から翻ってWE仮説に進むためには、さらにこの物理条件の組み合わせのシステムが、ダイスのようにすべて現実化可能な組み合わせであることが仮定されなければならない。(中略)あらゆる物理定数の値の組み合わせは本来実現可能でなければならないという原則は、けっして経験的に検証される原則ではない。(p.179)

 WE仮説は「充満の原理」を要求するというこの議論は、仮説の説明力の条件を曲解している。一方のサイの目が他方の偶数倍にならない(たとえば3-6が出たらやり直し)というルールならば、P(M|E)/P(S|E)≒26P(M)/P(S)>P(M)/P(S)となり、充満の原理が満たされている場合に比べて検証の度合は劣る(26/36)ものの、6-6が仮説Mを大幅に確証することに変わりない。観測選択のもとでは、現実化可能な組み合わせが複数ありさえすれば観測自体がSよりMに有利な証拠となる。WE仮説に「充満の原理」という強い条件を読み込んだ上で疑問視するのは、端的な論点先取なのである(注4)。
 実際のWE仮説を見ても、ホイーラーの振動宇宙論では、重力と膨張速度との比が常に一定値以上であるよう制限されており(さもないとビッグバンのあと収縮が起こらず、振動が中断してしまう)、物理定数の組み合わせのうち一部だけを実現可能としている。逆に、「開いた宇宙」だけが実現するというWEモデル(Gott,1982)もあるし、最も有名なエヴェレットの多世界解釈にいたっては、境界条件の代替のみ許容し物理定数の変更を認めていない(どのWEモデルが微調整への最良の説明となりうるかについてはSmith,1986を参照)。

 

 サイコロの譬え話を宇宙論のWE仮説検証の適切なアナロジーにするには、観測選択効果を含むシナリオBでなければならなかった。さてそれでは、観測選択効果さえあれば十分であろうか? ここからは『偶然の宇宙』への批評を超えて、本書が自ら道を閉ざした論争的展望を探ることにしたい。
 シナリオBでは、私はずっと眠っており、6-6が出たとき揺り起こされる筋書きになっていた。何回目に6-6が出ようとも、揺り起こされるのは同じ私であった。しかし、私がある数n(未知でもかまわないが特定のただ一つの数)と結び付けられていて、その回に6-6が出たときにのみ私が賭場に招かれ、その他の回に6-6が出たときは別の人が賭場に招かれることになっていたらどうか。6-6以外が目撃されることはないという観測選択効果はシナリオBと同じだが、6-6の目が「私に」目撃されるとは限らない、という新たな設定である。n回目以外に6-6が出ても、私は眠ったまま放置されるので、この現実の観測Eは実現しなかったことになるのだ。
 これをシナリオCとしよう。この場合、P(E|M)は他ならぬn回目に6-6が出る確率、P(E|S)はただ一回の振りで6-6が出る確率だから、ともに1/36であり、P(E|M)≒1とならない。したがって、P(M|E)/P(S|E)=P(E|M)/P(E|S)×P(M)/P(S)=P(M)/P(S)であり、確率の変化は生じず、EはMを確証しない。
 「n回目の振り」が「この宇宙」に相当すると考えてみよう。Eが「ある宇宙で誰か観測者がファインチューニングを観測する」ことだとすれば、確かにP(E|M)≒1、P(E|S)≒0で、EはMを確証する。しかし本来EがEであるためには、観測者が単に「誰か」であるだけでは不十分で、他ならぬ「私たち」でなければならない。しかし、「私たち」が存在するためには、予め決まった特定の宇宙n(この宇宙!)がファインチューニングされねばならないのではなかろうか。いくら別の宇宙が微調整されてその中に観測者が生まれたとしても、それは「私たち」ではないのだから、他ならぬこのEの実現というデータとは無縁なのではないか(Dowe,1998,White,2000)。
 「私たち」の身元が、固定指示された起源の同一性に依存するならば、P(E|M)=P(E|S)≒0で、EはMを確証しないのだ。よって、EにM確証力を認めるためには、多宇宙にシナリオCでなくBが妥当せねばならない。ここに、人間原理の暗黙の思想「多宇宙のどれであれ一つでも観測者がいれば『私たち』はいる」(White,2000,p.268の用語では「逆観測選択効果converse observational selection effect)あるいは少なくとも「多宇宙の中で『私たち』の誕生しうる宇宙は一つに限られない」という前提が浮上してくる。その前提が認められてのみ、観測選択効果がWE仮説を支持するルートが確保されるのである。

 

 固定指示された「この宇宙」に生まれなければ観測者は「私たち」ではなかったかどうか、という議論は、一つのこの宇宙内に舞台を限定して論じなおすとわかりやすい。「生物が登場する以前に固定指示されたこの地球という物体上に生まれなければ、観測者は『私たち』ではなかったのだろうか?」
 指示の因果説により起源の同一性という基準を固守するならば、「この惑星」に生じたのでないかぎり、その観測者はただの「誰か」であって、「私たち」ではないだろう。一方、「私たち」は特定の時空と結びついた存在ではなく、どこへでも生じうるものであるなら、「この惑星」以外のどこかであってもそこに意識が灯れば「私たちによる観測」が実現したはずだろう(注5)。前者の自己同定モデルをQとし、後者の自己同定モデルをRとしよう。
 形而上学としてのRとQとの信憑性の比、つまり事前確率の比を、私たちが今現にここにいるという証拠Eに条件付けた事後確率と比較してみる。

 P(R|E)/P(Q|E)=P(E|R)/P(E|Q)×P(R)/P(Q)
 P(E|R)≒1(注6)  P(E|Q)≒0
 P(R|E)/P(Q|E)≫P(R)/P(Q)

 私たちが現にいるという事実は、Rを確証していることがわかる。かりに太陽系の微細な揺らぎの変化によってこの地球がたまたま知的生命を宿さなかったとしても、どこか別の惑星に生まれた知的生命が「私たち」であったはずだという、そういう見方の方に遥かに有利な証拠となっているということだ。これは、地球から「この宇宙」へと議論を戻しても同じことである。多数宇宙のどこにであれ(少なくとも特定の条件を満たした多数の、もしかしたら無限の数の諸宇宙に)この同じ私たちは生まれえたということだ。このモデルRが正しそうだということは、結局、前節のシナリオCよりもシナリオBが適切なアナロジーだったということであり、ゆえに、「微調整と観測選択効果はWE仮説を検証する」という知見に訂正は要しないということになる(Zuboff,1991)。
 モデルRはさらに、人格に関する指示の因果説が、誕生以前まで遡った反実仮想のもとでは妥当しがたい、ということを示唆している。私は、現に私を生み出した特定の精子と卵子の結合がなかったとしても、依然どこかに誕生していただろうということだ。ただし私の誕生後については、連続した時空線による指示の因果説を上のベイズ計算は支持も反駁もしていない。
 人間原理はこのように、意識、自己、同一性など諸問題相互の整合性を根本から問い直す、莫大な哲学的潜在力を秘めた思想である。その中核の方法論「観測選択効果」を、『偶然の宇宙』がしたように人間特有の好みや効用や尊厳意識などに還元するのは、物理学への不当な評価であるばかりか、貴重な哲学的水源をむざむざ埋め立ててしまうことを意味するのである(注7)。


[注]
 第3節に見るシナリオBと同型にするには、湖に適格な魚が一匹でもいれば高確率で釣れる罠である(たとえば一匹かかるまでいつまでも待つ)という但書きを付けて、魚の絶対数が影響しないようにすることが必要である。
 魚獲りの例のような単なる選択効果と、ファインチューニングのような観測選択効果とが、本書ではともに「観察による選択効果」と呼ばれているが、「いま6-6が生じたという情報」のような、そもそも選択効果ですらないものまでが「観察による選択効果」と記述されている(p.176)のは、大問題ではなかろうか。
 カーターとホイーラーのWE仮説を同列に並べるのは実は不適当である。ホイーラーのWE仮説は、量子宇宙論の内部で構築されたため一定の事前確率を持つ理論であるのに対し、カーターのWE仮説は、物理学内部で作られてはおらず、まさにハッキングが問題にしているベイズ的推論によって、微調整の謎を根拠として設けられた仮説シェーマである。カーターのWE仮説はその具体的内容を特定の物理理論によって埋めねばならない。その候補としては、同時共存する多宇宙の理論に限られず、ホイーラーの継起的多宇宙の理論も適格なのである(Smith,1986)。この意味で、WE仮説のカーター版とホイーラー版は論理レベルが異なるのだが、以下、この問題にはこだわらない。
4. WE仮説の確証と説明力にとって、実現する宇宙の数が無限個(P(E|M)=1)である必要がないことにも留意したい。
「人間原理」という名が誤解を生むことを防ぐためにしばしば主唱者たちが施す但書きも想起されたい。すなわち、観測選択条件はホモサピエンスである必要はなく、知性を持った観測者でさえあればよい、と。
6 シナリオBと合致するのはP(E|R)≒1の場合だが、P(E|R)≫P(E|Q)でさえあればP(E|R)はどんな値でもよい。注4参照。
7 観測選択効果への唯一正当な批判は、観測選択に安易に訴えると究極理論を探究する動機が弱まる、というワインバーグの危惧であろう(Weinberg,1992)。


[文献]
Bostrom, Nick. 2002 Anthropic Bias: Observation Selection Effects in Science and Philosophy (Routledge)
Dowe, Phil. 1998 "The Inverse Gambler's Fallacy Revisited: Multiple Universe Explanations of Fine Tuning" https://www.utas.edu.au/docs/humsoc/philosophy/Phil/pdfs/Fine_tuning.pdf
Gott, J.R. 1982 "Creation of Open Universes from de Sitter Space" Nature 295
Hacking, Ian. 1987 "The Inverse Gambler's Fallacy: the Argument from Design. The Anthropic Principle applied to Wheeler Universes" Mind 96
Leslie, John. 1988 "No Inverse Gambler's Fallacy in Cosmology " Mind 97
Leslie, John. 1989 Universes(Routledge)
McGrath, P.J. 1988 "The Inverse Gambler's Fallacy and Cosmology ― A Reply to Hacking" Mind 97
Page, Don N. 1999 "Can Quantum Cosmology Give Observational Consequences of Many-Worlds Quantum Theory?" General Relativity and Relativistic Astrophysics eds.by C.P.Burgess, R.C.Myers, Eighth Canadian Conference, American Institute of Physics
Smith,Quentin. 1986 "World Ensemble Explanations" Pacific Philosophical Quarterly 67
Weinberg,Steven 1992 Dreams of a Final Theory (Radius)(ワインバーグ『究極理論への夢』ダイヤモンド社,小尾信弥、加藤正昭訳、1994)
Whitaker, M.A.B. 1988 "On Hacking's Criticism of the wheeler's Anthropic Principle" Mind 97
White, Roger. 2000 "Fine-Tuning and Multiple Universes" Nous 34:2
Zuboff, Arnold. 1991 "One Self: The Logic of Experience" Inquiry 33

                         (和洋女子大学)
Toshihiko Miura

 Critical Notice:The Observational Selection Effect and World-Ensemble Hypotheses
            
 ――On Kunitake Ito's Book