書評目次
三浦俊彦による書評
★ 黒田亘、野本和幸(編著)『フレーゲ著作集4』
* 出典:『週刊読書人』2000年1月14日号掲載
フレーゲ著作集(4) 哲学論集 [ ゴットロープ・フレーゲ ]
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日本やヨーロッパ大陸の哲学・思想に比べて、英米の「分析哲学」には一つのはっきりした特徴がある。それは、歴史が軽視されていることである。一連の問題圏が形作られるやいなや、論争と解決が至上目的となってテクニカルな改訂が繰り返され、数学や自然科学に似た累積的議論が進化してゆく。哲学史を一々振り返っている暇はない。言語分析の哲学的手法と、物理学や認知科学などとの接点が明確になるにつれ、分析哲学のこの非歴史的傾向はますます強まっているように思われる。
むろん逆にいえば、論争が科学的共通言語でなされているというのは議論が自ずから客観的体系をなしているということだから、潮流間の歴史的影響関係を辿ろうと思えば辿りやすいことも確かであろう。実際、分析哲学の内部で、分野ごとの系譜研究、往年の大哲学者の人物像やその業績をめぐる論文集などが何冊も編まれている。そんな中、「フレーゲ・ルネッサンス」だという。ゴットロープ・フレーゲ。百年前の分析哲学創成期のビッグネームである。というより、分析哲学の唯一の創始者と言うべきだろう。
十五年ほど前に企画が決まってようやく上梓の運びとなったという本著作集を私は、率直なところ所詮はいわゆる「文化史的回顧」の一つとしてひもといてみた。ところが、一行一行から発散するただならぬ霊気は一体何だろう。ここにあるのは紛れもなく、現在進行形の生きた哲学ではないか。
年代順に並べられた諸論文のたとえば五番目「意義と意味について」(一八九二年)の冒頭を読んでみよう。「同一性は……関係であるのか。そして、関係であるならば、それは対象の間の関係であるのか、それとも、その対象に与えられた名前または記号の間の関係であるのか。」この一見トリビアルな問題意識こそ、現代哲学における言語論と存在論を結ぶ枢要な位置を占めているということは、専門筋には今や周知の事実である。
フレーゲが論じている主題は、はっきり言って、かなり狭い。「思想」「意味」「対象」「存在」「真理」といった根本概念から「性質」「関係」「主張」「虚構」「私」といった日常概念、そして「固有名」「関数」「否定」「普遍性」「法則」「数」といったテクニカルな概念まで、さまざまな主題を掘り下げて論じ(というより再定義し)ているが、その思索はひたすら言語と数学に集中している。価値論はもとより、心の哲学や様相の存在論も回避されている。この局限されたフレーゲの細密な問題意識が、広範な問題群――真理論や科学哲学、指示の形而上学、言語行為論、志向性やクオリアの哲学を論ずる現代哲学のスタイルを決定してしまったのである。
フレーゲの一文一文に稀有な緊迫感が宿っている一因は、彼の時代が知の激動期だったということだろう。分析哲学が拠り所とする論理学が、フレーゲ自身を革命的開拓者の筆頭としてリアルタイムで更新中であった。哲学と論理学と数学が相携えて、新展望のもとに再構成されようとしていたのである。この生き生きとしたパイオニア精神こそ、現代分析哲学が失ったオーラなのだろう。フレーゲの謹厳な思索スタイルを前にすると、現在の分析哲学者のことごとくが矮小なエンジニアに過ぎないような気さえしてくる。現代の分析哲学界は、一通りの完成をみた数理論理学の上に安住し、先駆者の遺産を費しながら微差を競うのみの職人芸サークルと言えないこともない。そんなことを改めて自覚(哲学の基本!)し、威儀を正して全体的視野で思索しなおすためだけにでも、フレーゲのこの著作集は熟読する価値がある。
野本和幸氏による三十頁に及ぶ巻末の「編者解説」が、この知的水源の諸相を緊密に整理してくれている。続刊の五冊すべてにこれと同レベルの解説がつくのだとしたら、この著作集が哲学史を超えた「現代哲学」渦中の最重要文献となることは間違いない。
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