三浦俊彦による書評

★ 上村芳郎『クローン人間の倫理』(みすず書房)

* 出典:『論座』2003年4月号掲載


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 ラエリアン・ムーブメントが昨年十二月にクローン人間誕生を発表したとき、私が興味を持ったのは、クローン人間誕生が本当かどうかではなく(どうせいつかは必ず誕生するのだし)、むしろマスコミ報道の方だった。生命テクノロジー関係のニュースの通例に洩れず、識者によるクローン反対、警告、忌避などが紹介されるというパターンである。
 新聞やテレビでだけ報道に接した人々は、専門家のほとんどがヒトクローニングに反対しており、怪しげな宗教団体だけがこの道徳に逆らっている、という印象を抱くのではなかろうか。しかし現実には、クローン人間作りに賛成する倫理学者や科学者は決して少数派ではない。マスメディアがなぜ賛成論を黙殺するのかということは意義深い研究テーマになるだろうが、書籍のレベルでは、賛成論はすでにさかんに展開されている。その中でも、賛否両論をバランスよく紹介し、反対論に本当に根拠があるかを丹念に問い直しているのが本書である。
 もちろん現状では、ヒトクローニングに反対するのは正当だろう。技術的に未成熟であるため、奇形が生まれる確率が高く、不必要な危険や苦痛を増やすことになるからだ。しかし巷で「倫理的な」反対として最も流布している「人間の尊厳に反する」という決まり文句はどうか。クローンが技術的に成熟し危険がなくなったとき、「人間の尊厳」が有効な反論として通用しうるだろうか。
 キリスト教文化圏ならともかく、「人間の尊厳」という概念に明確な意味を与えづらい日本では、この決まり文句の根拠を特に慎重に問いつめねばなるまい。著者は、絶対的な原理を出発点にはできないということを前提に、世間の習慣的な思い込みの数々を「批判的に総合し、もっとも納得できる見解へと高めて」いこうとする。その結果、「人間の尊厳に反する」という観念には、ヒトクローン特有の内容はないに等しいという認識に至ってゆくのである。
 たとえば、同じDNAを持つ人間が複数いると個人の独自性を損ない、「人間の尊厳」に反するのだろうか。否。ミトコンドリアDNAの食い違いがないぶん、一卵性双生児の方がさらに完璧なクローンだが、誰も一卵性双生児の存在が人間の尊厳に反するとは言わない。
 では、自然な生殖ではないがゆえに、クローンは「人間の尊厳に反する」のだろうか。否。帝王切開、出生前診断、人工授精……当初は非難や反対を被ったそれらの「自然でない」技術も、もはや倫理的に問題があるとは言われない。
 それでは、クローン技術は、「人を道具として扱う」がゆえに人間の尊厳に反するのか。否。この反対論を唱える人々こそが、クローン人間ならば臓器移植に使われても仕方ないという漠然としたイメージを抱いていて、その実現への嫌悪を表明しているとしか考えられないが、そのイメージ自体が倫理的に間違いだろう。臓器移植用の人間を育てるなどということは、クローンだろうがそうでなかろうが、そもそもあってはならぬことなのだ。「クローン技術は家族関係を破壊する」という反対論にも、同じ再反論があてはまるだろう。
 あるいは、「クローン人間として生まれた人は、親の人生を反復させられることにより、開かれた未来を奪われている」「親と同じような業績が期待され、本人の人生を奪う」といった議論もある。これは、遺伝子が人生を決定するという誤った偏見を利用した反論だ。しかし、誤解の方を尊重して公共政策をそれに従わせるというのは倒錯的だろう。「自分が他人の分身だと知ったときの心の傷は計り知れない」という尊厳論も、クローンはただの分身だという世間の差別意識を尊重している点で、問題がある。
 こうして見てくると、クローンへの倫理的批判はどれもみな、それ自体が倫理的に誤った前提に立っているか、クローン特有の問題の指摘になっていないか、どちらかであることがわかるのである。
 科学技術を曖昧な根拠で抑圧することは途方もない害悪だと信じている私にとって、情緒的な偏見を解きほぐしてゆく本書の論述は大変心強い。しかし、本書の本当の魅力は、心情的には「原発も禁止すべき」という立場にある著者が、論理の導きに従った結果クローン賛成派寄りの論述をせざるをえなくなったという、微妙な葛藤が見え隠れしているところにあるようだ。
 「クローンに反対する個々の主張は、筆者も正しいと思い、当然それを支持するものである。しかし、それがクローン人間を禁止する理由になっているかと言えば、残念ながら、そうではないと言わざるをえない」「問題は、クローン技術の人間への適用それじたいにではなく、子どもを自分の意志で支配できる自分の所有物だと思い、たとえば松井選手のクローンを作って大儲けしよう、といった、それじたいが非倫理的な動機のほうにある」  クローン反対論の混乱を批判することは、クローン以前の、古い社会倫理の基礎を問い直すことでもあったのである。

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