三浦俊彦による書評

羽生善治、吉増剛造『盤上の海、詩の宇宙』(河出書房新社,1997年8月刊)

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盤上の海、詩の宇宙 [ 羽生 善治 ]
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 将棋と詩。互いにこれほど異質なイメージを与える文化はなかなか無いだろう。将棋と詩の両方に興味を寄せる人間は日本中にいったい何人いるだろう。ましてや、この両ジャンルの最高峰の担い手が対談をしたらどういうことになるのか。夢の中のアクロバットのようなこの企画が実現した。天才棋士・羽生善治と対談(『対局する言葉』河出文庫)したことのある英文学者の柳瀬尚紀が仲介となって、羽生と、詩人・吉増剛造との対談が行なわれたのである。
 二つの対談が収録されている。「第一局」では吉増が羽生に将棋観を訊き、「第二局」では羽生が吉増の詩論を傾聴する、といった色彩がまさっているが、交互に相手の言葉の端にこだわり、考え込み、口ごもる、その間合いと気韻が静かに漂ってくる。
 全編を通じて二人が特にこだわっている言葉は、「反復」と「不安」だ。「反復」は、過去の棋譜をふまえて新たな指し手を探る棋士、過去の詩を乗り越えようとする詩人にとって、もともと重要な意味を持つ概念だったろう。これが二人の意識の中心をはっきりと占めるのは、吉増がカミュの「シジフォスの神話」を引用したあたりからである。絶えず転がり落ちる岩を、何度も何度も山上に持ち上げる刑に処せられたシジフォス。この永劫の修行のような「繰り返し」の中にふと灯る「喜びの瞬間」。この一点を巡って、二人の求道者の言葉は紡がれてゆく。
 だが逆に言えば、このとてつもなく抽象的な一点を拠り所にしてしか、この二人の対話は成立しようがなかったということにもなろう。やはり将棋と詩という二文化は、相融合して世俗的かつ具体的な、わかりやすい知恵の言葉を生み出すにはかけ離れすぎた異文化だということだろうか。
 私はかつて、図書新聞の年間ベスト3アンケートに羽生・柳瀬『対局する言葉』を挙げ、こう評したことがある。「……将棋の天才と翻訳の奇才との言葉の徹底した噛み合わなさが苛立たしくて却って面白い。……」目端の利くジャーナリストや評論家の対談ならともかく、それぞれの道の大家どうしがぶっつけで対話をすれば、傍目には全く噛み合わない異言語のように映じるのは当然なのだ。そこに漂うのは、活字に定着不能な、言いしれぬ霊気でなければなるまい。将棋アマ五段格の力を持つ柳瀬ですらそうなのだ。この羽生・吉増対談になるとこのズレはさらに広がっている。「異文化の共約不能性」とでもいう違和感に包まれた贅沢な時間が、訥々と流れてゆく。
 しかし、本当は訥々どころではなかったらしい。むしろ、逆なのだ。羽生と吉増がこだわっているもう一つの言葉「不安」を巡って、二人の間に不思議な共鳴が生じているのである。羽生は言う。「不安をまったく感じなくなるということは、この先きっと永遠にないだろうなと思っているんです。……自分の考えたすべての変化に確信がもてない。……もともと自分が考えていた将棋観みたいなものが、もしかして間違っていたんじゃないか、……ほんとうに不安の層がだんだん山のようになってきて……」史上空前の七冠までのぼりつめたあの羽生善治がこのような「不安」を抱いているとは驚きだが、この貴重な告白を導き出したのは、大詩人であればこその吉増のオーラであったに違いない。そして吉増は、なんと次のように受ける。
 「こうやって言葉を出し続けていることが、……言葉で説明できちゃっていることは、果してほんとうなのかという割れ目みたいなところ、……口ごもってしまったり、迷ってしまったり、絶句してしまったり、……そういう不安というか、裂断というか、不連続というか、そういうことを身につまされて感じました。」ここまで自覚されてしまうのだ、この二人が対峙すると。詩作の不安と対局の不安とは、まったく異なる原理に支配された体験だろう。同じ「不安」という言葉でわかりあえたと思うこと自体が「錯覚」だろうというわけだ。
 だからこそ、通例のメッセージ的対談の論理を超えた「詩」そのものとしての稀有の対話が醸成されたのである。後半、「歩って駒はなんか将棋の皮膚みたいな感じがする駒だと思っているんですよ」という羽生の名言が飛び出す。「皮膚」は、対談の中で吉増が朗読した自作「生命よそんな風に」の冒頭近くに現われた言葉だ。羽生自身、このような「詩的」な言葉が自分の口から漏れ出るとは、吉増と向かい合うまで思ってもいなかったのではないだろうか。
 「通訳」として同席した柳瀬尚紀の発言は、柳瀬自身の意向でおおむね削除されている。それによってこの本はさらに「詩的でわかりづらく」なったのかもしれないが、そのぶん、荒木経惟による二人の対談中の表情写真三十葉が目を楽しませてくれる。
 他にも、紙の将棋盤にさまざまな付箋を貼り付けメモを記した、吉増のオブジェ作品の写真や、羽生に捧げる詩なども収録されていて、詩と将棋のさまざまな出会い方が示唆されている。「将棋言語を使った文学作品はできないものか」とは柳瀬の口癖だが、それを探る一つの、変則的だが確かな手掛りがこの本であることは間違いない。

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