三浦俊彦「アドホック日記」(2004年6月15日) - 判決文の論理に関する意見書(【解説】つき)

  
日記索引

* 続編 | 別事件での意見書


 判決文の論理に関する意見書

                    2004年6月7日

  東京高等裁判書第10刑事部 御中

       和洋女子大学人文学部国際社会学科教授   三浦俊彦 印


 以下は、本事件の判決文に見られる論理的な不合理を指摘したものである。他の判決文や司法の慣習を参照した上での意見書ではないので、必ずしも本事件に特有の事情を指摘したものではない。すなわち、日本の裁判で通例であるような論理的欠陥を指摘しているに過ぎない箇所もあるかもしれない。しかし、かりにこの判決にとどまらない、司法に通有の問題点を指摘したものだとしても、それが本件の判決の欠点に関わることには変わりないのであって、控訴審で改善されるに値しないとして看過されることがあってはならないと考えるものである。

 1.●判決の「理由」には、いくつか、不適切な表現が含まれている。

 「本件証拠関係と矛盾するところがない」(p.10)「矛盾するところはないものと認められるという限度で」(p.24)「矛盾するところがないものと認められるばかりでなく」(p.26)等。
 これらの表現の趣旨は「当該鑑定の結果は、被告が犯人だということと矛盾しない」ということであろう。しかし、「矛盾しない」という言い回しは、語用論で言う「広義の関連性の原則」の中の「量の原則」に違反している。たとえば、外国から電話でこちらの天候を聞いてきた相手に対し、台風が吹き荒れているのに「晴れてはいないよ」と答えたとしよう。この答えはウソではないが、伝達される情報量がことさらに削減されている。つまり、不誠実な応答である。判決文は、「被告人が犯人である可能性が高い」と言える(と自ら主張する)文脈において、この「矛盾しない」という表現をあえて前置したり(p.24,26)、代用したりしている(p.10)。これは、誠実な語用論規則に反した作文である。
 「矛盾しない」という表現の意味は、「両立可能性」である。PはQと矛盾しない、というのは、〈PかつQ〉が可能である、というごく弱い意味でしかない。
 そもそも、PをQの証拠とするためには、「PならばQである」「QならばPである」のどちらかが立証されねばならない。前者が立証されれば十分であるし、それができなければ、せめて後者が立証されねばならない。つまり、鑑定結果が有罪判決の十分条件であれば万全だし、さもなければ、せめて鑑定結果が有罪判決の必要条件になっていなければならない(ただし、単一の「P」と「QならばP」とから「Q」と結論することは、「後件肯定の誤謬」にあたる。したがって、単に必要条件である鑑定結果は、多数揃って十分条件に近づいた場合に初めて実質的な証拠として機能しうる)。
 ところが、「PはQと矛盾しない」という表現は、「PはQの十分条件である」ことはおろか、「PはQの必要条件である」ことすら述べていない。単に、「PとQは背反的でない」と述べているのみである(ベン図を描くとすれば、Pの記述のもとに包括される状況の集合と、Qの記述のもとに包括される状況の集合とが、交わっているということに過ぎない)。その意味では、「イラク戦争が起きた」ことは本件の有罪判決が正しいことと背反的でなく、「被告が犯人であることと矛盾しない」。しかし被告人が犯人であるための十分条件でもなければ必要条件でもないイラク戦争が、本件の証拠にならないことは明らかだろう。その程度の意味である「矛盾しない」という表現を多用した判決文は、不誠実といわざるをえない。もしくは、誠実であるとするならば、裁判官が証拠への確信のなさを率直に認めた表現だということになる。誠実だったにせよ不誠実だったにせよ、いずれにしても有罪判決にいたる合理的な論理を判決文は備えていると認められず、抜本的に改善された再判決が必要とされる。

 2.●ロジックを軽視し、ヒューリスティクスを偏重する傾向が著しい。

 ロジックとは、結論に至る過程・方法に主眼を置く論証主義であり、ヒューリスティクスとは、正しい結果が得られるならば方法は問わないとする発見主義である。法律の第一義が前者にあり、後者は法律の本義に反するはずだが、判決文には、ロジックの軽視が散見されるのである。
 p.23の、「天野意見書」に対する批判(f)はその例である。「天野意見書」はもともと、「馬路鑑定」を鑑定したメタ評価であり、筆跡そのものを鑑定した対象評価ではないから、馬路鑑定の「結果」よりも「方法」の批判を目的としていることは明らかである。そして、方法の批判は、「馬路鑑定の真実性」の否定には直接なりえないが、「馬路鑑定の信用性」を直接に否定することができるのである。「天野意見は馬路鑑定の信用性を直接左右しない」としている判決は、鑑定の「真実性」と「信用性」を混同した誤りというべきであり、真実性・結果重視のヒューリスティクスに偏り、信用性や手続きの適正さを蔑ろにするロジック軽視に陥っている。あるいは少なくとも、ヒューリスティクスとロジックを区別できていない。本件が「別件逮捕」というヒューリスティクスをめぐる争点を含んでいるのも、捜査当局と裁判所の上記態度(ロジック軽視)が原因であると考えられる。

 3.●第1項で指摘した、「矛盾するところがない」という不適切な表現を判決が用いていないのは、掌紋鑑定に関する部分である。つまり、本判決は、掌紋鑑定を最も信用に値する証拠と認めていることが察せられる。しかし、その「金子鑑定」の評価に関しても、判決文にはいくつかの奇妙な記述が散見される。
 以下、列挙する。
 ▼p.14において、「さし名照会」に言及し、鑑定としての適性に留保をつける但書きの体裁をとっていながら、「金子鑑定の公正さに何らかの影響を与えたような状況は全くうかがわれないのである」とだけ述べられているのは、構文上、意図が不明である。
 「全く」状況がない、という断定の強さからして、その理由説明が当然期待される書き方になっているにもかかわらず、何の説明もない。説明を要しない一段落を、なぜさし名照会のために費やしたのか。説明を要しないならば、ここは無駄な記述であろう。
 ▼ここが無駄な記述ではなく、さし名照会を正当化する説明が実は必須だったと判決自身が認めているらしい事情はもちろん推測できる。
 さし名照会は、はじめから容疑者のものとわかっている掌紋だけを遺留掌紋と照合するのだから、捜査の既成判断に係留され、「容疑者の掌紋は遺留掌紋と合致するはず」という先入観に引きずられた鑑定がなされる可能性が高い。つまり、「係留ヒューリスティクス」(※注1)に訴える近道選びをしてしまいかねず、客観的な判断が達せられにくくなることは、常識的にも推測できる。実際に本件の金子鑑定が係留ヒューリスティクスに毒されていたかどうかとは関わりなく、さし名照会という方法が係留ヒューリスティクスを疑わせるという「常識」が認められるだけで十分である。この常識に反した見解をあえて判決は述べているのだから、立証責任が求められて当然なのである。
 しかし実際には、判決文から読み取れるのは、鑑定人の係留ヒューリスティクスへの疑いを強める事情ばかりである。判決文p.15~16によれば、遺留掌紋がかすれるなどして不分明な場合は、押捺掌紋の特徴に合わせた解釈を鑑定人は行なったという。そのやり方によれば、「12点法」の信頼性の根拠となる統計を大幅に上回る確率で12点の一致が発見できてしまうことがますます疑われるだろう。「金子鑑定の公正さに何らかの影響を与えたような状況は全くうかがわれない」と強く断定するための説明を判決文が一切省略しているのは、論証放棄にあたる。
 ▼「12点法については、約100万指の指紋データによる統計調査が行なわれた結果、特徴点が6点一致した指紋は31個あり、7点一致したものはなく、統計上は、12点一致するのは1000億人に1人程度にとどまるという結果が報告されている」(p.15)という。その統計の根拠である「約100万指の指紋データによる統計調査」は、さし名照会による調査だったのだろうか(別人の、もしくは別指の指紋の一致確率を調べる限りはさし名照会は不可能だと思われるのだが)。また、押捺指掌紋だけでなく、不完全な遺留指掌紋を含めた調査だったのだろうか。少なくとも以上2つの点で本件の掌紋鑑定と同じ条件だったことを述べないかぎり、100万指統計の結果を、本事件のさし名照会の信頼性の根拠として用いることはできないはずであろう。金子鑑定の実際の信頼性がどうであれ、判決に対しては、上記の疑念を払拭する説明が論理的に要請される。
 ▼金子鑑定の信頼性を支持するかのような要因として、「指掌紋鑑定の根拠として指摘できる特徴点であるかどうかと、遺留指掌紋からその特徴点の種別が判断できるかどうかとは、異なる次元の問題として取り扱っている」(p.16)ことが挙げられているが、これがなぜ金子鑑定の信頼性にとって有利な要因なのかが理解できるように書かれていない。12点法の根拠となる100万指統計調査においても「指掌紋鑑定の根拠として指摘できる特徴点であるかどうかと、特徴点の種別が判断できるかどうかとは」同じ次元の問題として取り扱わない、ということが明示されないかぎり、p.16の「異なる次元の問題として取り扱っている」云々の記述は金子鑑定にとってむしろ不利な要因を指摘したことになってしまう(なぜなら、少なくとも素朴な常識では、信頼に足る統計調査というものは、特徴点であるかどうかの判断を、特徴点の種別の判断によって行なうはずだと思われるからである)。よって判決文は、必要な説明を怠っているばかりか、一見したところ反証要因と思われるものをなぜか確証要因として用いるという、根本的な誤謬を犯しており、論証に最低限必要な形式を満たしていない。
 ▼以上のように、この判決文は、控訴審への委託を前提にしているかのような説明放棄が多々見受けられる。それにもかかわらず、判決文は「金子鑑定の手法や内容等について疑義を差し挟む余地はない」(p.16~17)という強い表現を用いており、前出の「状況は全くうかがわれない」等々、他の同様の断定箇所とも相俟って、判決全体にことさらに疑義を抱かせる結果をもたらしている。
 ▼12点法の是非をめぐる紛糾した議論は、本来不要なはずである。不要な議論が生ずる原因は、個々の鑑定において、基盤となる鑑定理論(本件の場合は12点法)が逆鑑定を受ける仕組みができていないからである。
 新薬の臨床試験の場合は二重盲検法(※注2)が常識になっており、これを経ていないと違法になるばかりか、二重盲検法に不備があっただけでも薬の認可が取り消されるなど、厳格な鑑定基準が守られている。それに対して、犯罪捜査における指掌紋鑑定や筆跡鑑定では二重盲検法が義務づけられず、さし名照会などという杜撰な手法が認められ、「公正さに影響しない」と裁判所によって認定されていることを、私は今回初めて知り、仰天した。対照実験を必須とする学界の基準では考えられないことである。
 「二重盲検法」を採用すれば、12点法および鑑定人の技能に関する無駄な論争は必要なくなる。鑑定人には、たとえば10人の押捺指掌紋を与える。どれが被疑者の押捺指掌紋であるかは鑑定人だけでなく鑑定監督者にも知らせない。その中から、遺留指掌紋とヒットさせる。また、どのような事件であるかも伏せておくのが望ましい(とくに公安事件だと、鑑定人は、その政治的信条如何によっては、「すべての指掌紋がシロ」という可能性を嫌って、無理な鑑定を試みる可能性が生ずる)。
 この二重盲検法によってたとえば3人の指掌紋鑑定官が独立に12点法で鑑定して、全員が被疑者の押捺指紋を指摘すれば(デタラメに指摘した場合に被疑者が選ばれる確率は1/1000であるから)、被疑者が有罪であることの確証として信頼できるのみならず、12点法という指掌紋鑑定法の適用範囲の確証にもなる。なぜなら、この手続きで10件の事件の鑑定がなされ、そのすべてにおいて、事前確率の最大である被疑者の指掌紋が指摘されたとすれば(デタラメに指摘した場合に各事件の被疑者が選ばれつづける確率は1/10の30乗であるから)、判決の言う「1000億人に1人」どころではない超天文学的な信頼度が確保される(※注3)。逆に言えば、2人以上の指紋がヒットした場合は12点法への合理的な疑義が生じ、鑑定人どうしで異なる人物の指紋をヒットした場合は鑑定人の技能に合理的な疑義が生ずる。被疑者の指掌紋だけでなく、鑑定理論と鑑定人の技能のほうも二重盲検法によるこうした逆鑑定を受けてこそ、鑑定理論と鑑定人の信頼度も増してゆくのである。これが実施されていないかぎり、何十年鑑識課で働いたとか、年に何千件の指紋を鑑定しているとかいった「権威からの論証」は意味がない。
 判決の拠所とする「1000億人に1人」はあくまで経験的な統計数値であるため、調査方法等をめぐって「12点法は信頼できるか否か」といった紛糾した議論が残存してしまう。他方、二重盲検法で「1/10の30乗」等の一致度が確認されれば、こちらは経験的確率でなく論理的確率であるため、帰納的にではなく演繹的に鑑定法の信頼度が導かれ、この手続きをクリアしていれば別個の検証はもはや必要なくなる。鑑定そのものが鑑定の鑑定(検証)になるのである。12点法と鑑定人は逆鑑定をくぐりぬけたことになり、疑義を残すことはなくなるだろう。
 科学哲学では、科学理論とデータとは全体論的なネットワークを織り成すものとされている。特定の理論を不可謬と前提して、それに合わせてデータを解釈することは慎まねばならない。データによって科学理論のほうが反駁される余地も残されているからこそ、ニュートン力学が相対性理論と量子力学にとって代わられるなどの科学革命も起こったのだし、もっと小規模な理論改訂はたえず生じている。それにひきかえ本件の判決は、「12点法」という鑑定理論を不可謬と固定しており、12点法の誤適用のおそれを意識している形跡も見られず、理論の適用範囲および鑑定人の技能が反証される可能性を拒んでいる点で、非科学的であると言えよう。

 ●以上のように、この判決は、論理的に不備な文章によって構成されている。不備は、判決文自体の意味論的な非論理性と、不備な鑑定を追認した非合理性とに分けられる。前者は容易に訂正可能だったはずであり、後者も、裁判所の命令による公正な鑑定を実施することによって防止可能なものである。公正な二重盲検法に則った鑑定は、経費と手間がかかるかもしれないが、当事者に疑念と不満を残して控訴審でまた労力が費やされる無駄に比べれば、当事者を一度で納得させうる論理の遵守は、長い目で見て遥かに効率的なはずである。審査過程の公開されない入学試験でさえ、受験生の名は綴じ代に隠したまま採点するのが通例だ。世間並みの良識が司法の鑑定にも実現されることを要望したい。

※注1 係留ヒューリスティクス anchoring heuristics. ……始めに与えられた情報に引きずられる心理傾向。単純な例としては、多数の被験者にアフリカの国の数を答えさせたダニエル・カーネマンらの実験。「10カ国より多いか少ないか」と始めに問うた第1グループと、「60カ国より多いか少ないか」と始めに問うた第2グループとで、「では何カ国だと思うか」と問うたところ、第1グループの回答の平均値は25カ国、第2グループの回答の平均値は45カ国と、大きな差が出た。もちろん、始めに恣意的に与えられた「手掛り」の相違ゆえである。

※注2 二重盲検法 double blind test ……「病は気から」の諺どおり、よく効く薬を飲んでいるという安心感だけで治癒効果が生ずる「プラシーボ効果」が実際に認められる。新薬の認可には、プラシーボ効果を除いた本当の物理的薬効を検査するために、次のような二重盲検法の試験が重視される。各被験者に割り付けられた治療に、新薬が用いられているかプラシーボ(偽薬)が用いられているか被験者にわからないようにし、さらには、治験実施医師、治験依頼者、治療や臨床評価に関わる治験実施医師のスタッフも知らないようにして実施する(被験者への接しかたや、データの読みかたに先入観が入り込むことを防ぐため。「二重」とは、患者と担当医の両者が盲目状態にあるという意味)。プラシーボ群に比べて新薬群の治癒効果に統計的に有意な効果が認められれば、新薬の効果が実証されたことになる。ただし、進行性の病気、癌など重症の病気の場合は、プラシーボの使用に倫理的な問題が生ずるので、二重盲検法が実施できない場合もあるようだ。軽度の病気の場合(とくに、治療が受けられなくても医学的に重大な結果が生じないであろう場合)は、二重盲検法が常識となっている。
 「この押捺指紋は被疑者の掌紋である」という予備知識は、「遺留掌紋と一致するはずだ」という先入観を生む。これは、「自分が飲んでいるのはよく効く薬だから効くに違いない」というプラシーボ効果と同じである。プラシーボ効果による鑑定を排除するためには、二重盲検法による、複数押捺掌紋を用いた鑑定が求められる。治験の場合と違って倫理的問題が生じないので、指掌紋鑑定、筆跡鑑定のすべての場合に二重盲検法が必須とされなければならない。

※注3 むろん、被疑者が犯人でない場合(押捺指掌紋の中に遺留指掌紋と同一人のものがない場合)もありうるので、正確には、被疑者の指掌紋が選ばれ続ける必要はない。「被疑者以外の押捺指掌紋を遺留指掌紋とヒットしない場合」が続いた場合に、12点法と鑑定者の技能の信頼度が増してゆくことになる。

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 【解説】

 以上の「意見書」は、私自身とは何の関係もないある人の刑事訴訟事件(有印私文書偽造・同行使被告事件)の第一審判決について、論理学の立場から「判決文の論理の欠陥」を指摘するよう弁護側から求められ、作成した文書(第一審判決文の鑑定)である。
 縁もゆかりもないところからの不意の依頼だったので、判決文を適当に読み始めたのだが、判決文の論理展開のひどさ、そして指紋鑑定や筆跡鑑定のデタラメさに驚いたあまり、たちまち本腰を入れて作成した意見書である。
 目下、私自身が民事の被告になっている手前、民事と刑事の違いはあるとはいえ、より厳密になされねばならないはずの刑事訴訟でこんないい加減な鑑定や判決がまかりとおっているとは、大いに危機感を抱かされた次第である。

 第一回控訴審は6月10日に開かれたそうで、上の意見書は採用されなかったとのこと。被告本人の被告人質問もなし。
 いわゆる迅速裁判。
 次回公判は7月29日、最終弁論で実質的に結審という見込みだそうである。(判決は9月くらい?)

 意見書不採用なので、私は証人出廷をしないことになったが、弁護団の最終弁論にはこの意見書が全面的に取り込まれるとのことである。また、被告本人が「12点法」の全面批判を展開する予定だとのこと。

 ★判決文を掲示していないのでわかりづらいところもあると思いますが、上の「意見書」から、日本の刑事裁判の現状の一端を読み取っていただければさいわいです。これは司法や政治の問題にとどまらず、文化の問題だと思うのであります。