三浦俊彦「アドホック日記」(2003年1月12日)- くどいけど吉田秀彦にエール/格闘技界は画一化するな!

  
日記索引


 困るんですよ……。
 いや、再びイノキボンバイエの話で恐縮だが。
 朝日新聞の1/11夕刊のEvening Sports欄に、12/31のイベントについての長い記事が載っていました。前半の後半あたりの一部分を引用しましょう。

 ……………………………………………………………
 「紅白の裏じゃない。表なんだ」。猪木氏は(中略)自信を見せた。
 試合の方は、大熱戦を望んでいた観客にとってはやや不満が残った。もちろんそれぞれのカードで見どころはあった。パワー一点張りだったボブ・サップが腕ひしぎ逆十字固めでプロレスラーの高山善広を下したり、プロレスハンターの異名を取るミルコ・クロコップが見事なタックル封じで藤田和之を返り討ちにしたりしたことは、格闘技ファンをうならせた。
 だが、柔道の吉田秀彦と空手の佐竹雅昭の対決は、開始わずか50秒で吉田の絞め技が決まって終了。吉田自身、「もう少し盛り上げたかったが、勝てる時に勝負に出たい。それがああいう形になった」と反省した。
 一方、試合の合間に登場した猪木氏は、客の盛り上げ方にたけていた。「日本人は祭りが好き。・・・・・・」
 ………………………………………………………………

 勝手に吉田に反省させないでくれよ!
 あの試合のどこが不満なんだってんですよ、まったく。
 膠着状態の引き分けとかならいざ知らず、あんな鮮やかな秒殺のどこが不満なんですかっつの。触れたときには斬っている。まさに武道の真髄でしょう。あんなのオリンピックでもなかなか見れませんよ?
 猪木といい自殺したプライドの社長といい朝日新聞といいみんなしてどうして吉田に反省なんか迫るかなあ。
 何度も言うけど反省すべきは佐竹の方でしょう。
 だいたい、対戦相手を尊敬していれば「見せる試合」になんかならんのですよ。尊敬し怖れるべき対戦相手よりも観客を優先させろってわけですか?
 勝てる隙にすかさず勝つ。これを狙ってこそ結果的に「見られる試合」になるわけでしょ!
 みんなが一様にチンタラお祭り試合をしていたらどういうことになるか。もうひとつプロレス団体が増えるだけの話ですよ、全く。いい加減にしてくださいよ。
 「見せる試合」はかえって見られたもんじゃない。「見せない試合」こそ見られる試合になる。この「真剣勝負のパラドクス」は執筆中のパラドクス本に入れようかなあ。
 猪木的・森下的・朝日的イベント主義の害悪を以下に列挙する。

 1 刹那主義。無駄な力をセーブした必勝態勢こそが、格闘者双方の安全に繋がる。表面的な「見せる試合」という余計な配慮は、怪我のもと(桜庭和志を見よ!)。格闘家の本能を殺すようなイベント主義には、選手の使い捨て政策が見え隠れしている。
 2 全体主義。全員がプロレス化せよという平板化の危険!
 一見選手の「キャラクター」を重んじているようで、実は格闘技のプロレス化主義に染まれの一斉号令。サップ流があり、ミルコ流があり、ヒクソン流があるからこそ格闘技という文化は内的多様性をもって、内的対立軸を抱えつつ発展してゆく。
 3 保守主義。非日常的な「強さ」よりも日常的な「キャラクター」を優先する文化はすでにどこにでも溢れている。「身も蓋もない強さ」「殺伐とした勝利」を称えてこそ、格闘技特有の座標軸が輝くはず。微温的な時代への追随ではなく、積極的な革新が可能になる。
 4 馴れ合い主義。格闘家同士が互いへの尊敬と畏怖と警戒を怠って演劇試合に走ると、けっきょくは相手に向いているか観客に向いているのか中途半端になり、長い目でみて観客にも見捨てられることになろう。格闘家が観客の方に向くのはリング外にしてくれ!
 5 見当違いのパターナリズム。観客はこれこれこういう試合を求めているはずだ、という決め付けは、観客の観賞能力を過小評価している。心有る格闘技ファンへの侮辱である。どの試合も適度な時間続いて「スリリングな」攻防溢れる熱戦になればいいなんて、必ずしも観客は欲してませんって。グレイシー流の勝利至上主義が観客にインパクトを与えたからこそ、今日のプライドもあるということを忘れてはなるまい。

 ……以下いくらでも。
 とにかく吉田秀彦の戦い方が非難されるいわれは全くありません。
 吉田は現代日本格闘技界の宝ですよ。それをツブシてしまうような圧力や報道はほどほどにしていただきたいものである。いくら言論の自由とはいえバランスを欠いていますのでね。