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バートランド・ラッセルのポータルサイト

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「(週刊)バートランド・ラッセル(1872.5.18-1970.2.2)に関するメール・マガジン」
  no.0699_2020/09/05 (2006/12/21 創刊/毎週土曜 or 日曜日 発行)

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     ■ 目 次 ■
          

 1.ラッセルの著書及び発言等からの引用
 2.ラッセルに関する記述や発言等
  編集後記

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 1.ラッセルの著書や発言等から
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■「(ほぼ日刊)ラッセルの英語」
     n.1890〜1895  を発行しました。2つ再掲します。

 (1) ラッセル英単語・熟語  contemplation
   https://russell-j.com/beginner/reitan-c162.htm

★ contemplation【(n) 沈思黙考,瞑想;見込み、意図】

* contemplate (vt):熟視する,じっとみつめる;熟慮する,熟考する;
          〜しようと思っている | (vi) 沈思黙考する

1.ラッセルの例

Contemplation of the less accountable razing of Dresden by my own 
countrymen sickened me.
[いっそう弁解できないドレスデンの完全破壊(注:英国の爆撃による破壊)
を熟視し,私は胸が悪くなった。]
 出典:ラッセル『自伝』第3巻第1章「英国への帰国」
     https://russell-j.com/beginner/AB31-070.HTM

I tried to take refuge in pure contemplation; I began to write The 
Free Man's Worship. contemplation m.
[純粋な瞑想の中に避難しようと試みた。即ち,「自由人の崇拝」(A Free 
Man's Worship)を執筆し始めた。]
 出典:ラッセル『自伝』第1巻第6章「プリンキピア・マテマティカ」
     https://russell-j.com/beginner/AB16-090.HTM

He may camouflage his despair by religious phrases, or by the doctrine
 that contemplation is the true end of man, but whatever disguise he 
may adopt to conceal his inward defeat, he will remain essentially 
useless and fundamentally unhappy.
[彼は,宗教的な決まり文句(言い回し)や,黙想は人生の真の目的であるとい
う教義を持ち出すことによって,絶望をカムフラージュするかもしれない。し
かし,内なる敗北を隠すためにどのような変装をしようとも,本質的に無能な
(役に立たない)人間であり,また,根本的に不幸な人間であることに変わりは
ない]
 出典:ラッセル『幸福論』第16章「努力と諦め」
     https://russell-j.com/beginner/HA27-040.HTM


2.参考例

be lost in contemplation
[瞑想にふけっている]
 出典:『究極の英単語 v.4 超上級の3000語』p.137

The monks spent an hour in contemplation each morning.
 出典:Longman Dictionary of Contemporary English, new ed.

He was lost in the contemplation of the landscape for a while.
 出典:Collins COBUILD English Dictonary for Advanced Learners, new
 ed.


 (2)「ラッセルの英語 」n.1893-2 (旧「ラッセルの言葉」に該当するもの)
 
   https://russell-j.com/beginner/kankaku_sensation.html

 ラッセル「感覚( Sensation )」
  出典:牧野力(編/著)『ラッセル思想辞典』
  * Source: The Analysis of Mind, 1921, chapt.8 &Human Knowledge, 
1948, Part III, IV.

 以下は、遠藤弘 氏(故人/当時・早稲田大学文学部教授)による要旨訳に英
文(The Analyhsis of Mind, chapt. 8 の冒頭部分)を付加したものです。

 「感覚(センセーション)」とは、中性一元論において、世界の中性的素材
(注:心でも物質でもない、両者の中立的なもの)として重要な役割を果す概
念である。感覚(sensation)はまず、常識的に知覚の中の非把持的な、いいか
えれば記憶によらない要素と定義されうる。しかし、これでは感官(感覚器官
)を通してやってくる全てのものが感覚のように思われる(思われてしまう)。
目でみる光景、耳で聴く音、等々、それに頭痛や筋肉の緊張感もそうである。
 だが、それらのものの中には、多くの解釈(注:感覚データそのものでなく
、それを受け取った人が解釈したもの)や習慣的連関や期待が混じり合ってい
る。 そこで純粋な感覚という核に到達するには、それらの夾雑物を慎重に除
去しなければならない。しかしながら、感覚が存在することは確実だが、与え
られた経験内の何が厳密に感覚たりうるかを決定するのは困難だと、ラッセル
は言う。例えば、感覚が次第に色褪せてイメージに変貌し、いわゆる方量(ほ
うりょう/フリンジ/境界)を形成するようになるが、その途中の移り行きは
連続であり、感覚とイメージの境界というものがない。従って、こうした移り
行き全体を感覚とよんでしまう立場も成り立ちうる。しかしラッセルの場合は
この把持的推移はいわゆる直接的記憶であり、純然たる感覚ではない。それは
フッサールのいう意識流(意識の流れ)からその過去志向、未来志向をとり除
いた
根源的印象なるものに近いが、「印象」を「印象づけること」という因果的構
造へ分解するラッセルとしては、少なくともこの時期においてはそのようなと
らえ方を適切なものとは考えないであろう。ましてやフッサー ルのようにそ
れが絶対的主観性にまで高められてしまうことはラッセルの中性一元論の立場
と全く相容れない。 元来ラッセルにとって主観や意識という概念は不要だか
らである。
 そこでわれわれとしては感覚が何であるか厳密に定義することは断念して、
中性的素材としてのその在り方を理解するにとどめざるをえない。あるいはこ
のように言えるかもしれない。感覚は心と物の理論的構成の素材であるが、感
覚そのものが当の構成の中で理論的に構成されていると。
 さて、感覚が中性的であるということを理解するためには、上述のようなラ
ッセルの意識や主観という概念の扱い方に注意することが必要である。もし主
観があるとすれば、 主親は例えば一塗りの色に対して意識という一種の関係
をもつであろう。 その際、心的事象としての感覚は当の色の意識から成り、
色そのものは全く物理的であって、感覚与件とでもよばれるものとなるであろ
う。しかしながら中性一元論においては主観は数学的な点や瞬間と同じく論理
的虚構にすぎないのである。したがって上のような意味で感覚と感覚与件とを
区別する必要はない。われわれが一ぬりの色を見るときに得る感覚はそのまま
当の色であり、物理的世界の現実的成素に他ならないのである。しかしながら
、ラッセルによれば、当の色が物理的だということは、それが直ちに心的でな
いということにはならない。物的なものと、心的なものとが重なり合うことが
ないという想定は有効な想定ではない。一ぬりの色とそれを見たときのわれわ
れの感覚は物的、心的を問わず同一である。いいかえれば、感覚は心的な世界
と物的な世界にとって共通のものとして存する。それは心と物との交点と定義
されるのであり、物心の世界がそこから構築される中性的素材なのである。
 なお感覚および感覚たりうるもの(対象の裏側など)は目下のところ分析不可
能な世界の究極の成素であるという意味で個別者とよばれたり(The Analysis 
of Mind, p.124 脚注)、 パースペクティヴを問題にする中ではそれが物の現
れや相という体裁をとって論ぜられる
 また、その後、関心が知覚の因果説に向かって行った時期には、ラッセルは
感覚の内的および外的な物理的原因を推論しようとする常識の傾向を合理化し
、体系化しよ と努力する。その時期には中性一元論という言葉遣いがほとん
どなされなくなるが、むしろかかる事情の変化に伴って中性一元論も体裁を新
たにしたと見るべきであろう。すなわち世界の中性的素材としての役割は感覚
ではなく、事象が務めることになるのである(「中性一元論」の項を参照)。
                              (遠藤弘)

* Lecture VIII Sensations and images

The dualism of mind and matter, if we have been right so far, cannot 
be allowed as metaphysically valid. Nevertheless, we seem to find a 
certain dualism, perhaps not ultimate, within the world as we observe 
it. The dualism is not primarily as to the stuff of the world, but as
 to causal laws. On this subject we may again quote William James. 
He points out that when, as we say, we merely "imagine ”things, there
 are no such effects as would ensue if the things were what we call
 "real.” He takes the case of imagining a fire :
“I make for myself an experience of blazing fire ; I place it near my
body ; but it does not warm me in the least. I lay a stick upon it and
 the stick either burns or remains green, as I please. I call up 
water, and pour it on the fire, and absolutely no difference ensues. 
I account for all such facts by calling this whole train of 
experiences unreal, a mental tram. Mental fire is what won't burn 
real sticks ; mental water is what won't necessarily (though of course
 it may) put out even a mental fire. . . . With 'real’objects, on the
 contrary, consequences always accrue ; and thus the real experiences 
get sifted from the mental ones, the things from our thoughts of them,
 fanciful or true, and precipitated together as the stable part of the
 whole experience-chaos, under the name of the physical world.)
  

■「ラッセルの言葉(Word Press 版)v.2, n.1634〜1638

1)n.1634:ラッセル『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命 n.2
         https://russell-j.com/wp/?p=5711
         
2)n.1635: ラッセル『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命 n.3
        https://russell-j.com/wp/?p=5714

3)n.1636: ラッセル『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命 n.4
            https://russell-j.com/wp/?p=5720

4)n.1637: ラッセル『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命 n.5
         https://russell-j.com/wp/?p=5724
 

5)n.1638: ラッセル『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命 n.6
         https://russell-j.com/wp/?p=5727
                

★「ラッセルの言葉366_画像版」

 日本語 version : n.1399j-1405j を投稿
 英 語 version : n.1399e-1405e を投稿

  一つだけ再録します。
   https://russell-j.com/smart_r366/r366g_j1401.html

 「自画像はひとつじゃだめ」

 思うに,教養ある男女は皆それぞれ自画像を持っていて,この自画像をスポイ
ルするように思われる何らかの事態が偶然生じると傷つけられるようである。
最善の治療法は,一枚の絵(自画像)だけでなく,画廊全体を所有しておき,問
題になっている出来事に適切な自画像を選び出すことである。

Every civilised man or woman has, I suppose, some picture of himself 
or herself and is annoyed when anything happens that seems to spoil 
this picture. The best cure is to have not only one picture, but a
 whole gallery, and to select the one appropriate to the incident in
 question.
 Source: The Conquest of Happiness, 1930
More info.:https://russell-j.com/beginner/HA27-050.HTM

<寸言>
 ソクラテス曰く:「汝自身を知れ(自分が無知であることを知りなさい)」。

 この例で言えば、私は自分のことをよく理解していない、自分はこうではな
いか、いや、それほど馬鹿ではないのではないか? などなど、自分は自分の
ことを案外知らない(理解していない)。だから、自分のことを過信していな
い人は自分の自画像をたくさん持っている。
 しかし、かなりの人は自分は自分のことをわかっていると過信している。そ
うして、自分のことを非難されると、避難した相手は私(自分)のことを理解
していないと憤慨する。それなら、あなたはあなたを非難している人をどれだ
け理解しているというのか?

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(2) ラッセルに関する記述や発言等 
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 今回はお休みです。

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 編集後記 波乱が起こりそうもない総理・総裁選
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 自民党においては、総理と総裁が分離している時代(河野洋平総裁の時代)
もありましたが、ほどんどが、自民党総裁になれば(国会の承認が必要とし
ても)ほぼ自動的に日本の総理大臣になっています。

 政党の総裁の場合は、自党を支持する国民だけをみることになりやすいです
が、総理の場合は選出後に党から離れた立場に立ち、(自分を支持しない人も
含め)国民全体を見なければなりません。

 しかし、総理と総裁を明確に分離(いわゆる総総分離)しておかないと、自
分の都合によって、総理として振る舞ったり、総裁として振る舞ったりして、
国民を煙に巻くこともできます(実際、安倍総理はそれが得意です)。

 現在、自民党の5派閥が菅氏(官房長官)を総理候補として支持しており、
それだけで(地方党員票も含めて)全有効投票数の半数を超えています。これ
では「裏切り」が出ない限り、菅氏の総理総裁選出が既に決まっているような
ものであり、「出来レース」になってしまいます。一縷の望みは、地方票での
菅氏の得票数が極端に少なく、本来なら菅氏に投票するように派閥のボスから
言われている議員から「大量の裏切り(造反)」がでることしか希望はありま
せん。しかし、それはほとんどありそうもない状況です。

 河合夫妻の贈賄事件、河合杏里支援のために自民党が出した1億五千万円の
問題(一部が安倍事務所に還流している疑いあり)、森友・加計問題、その他
幾多の疑惑の解明をするためには、安倍総理に批判的な人間が総理大臣になら
ないと無理だろうと思われます。石破氏の政治思想は多くの問題を含んでいま
すが、ここは一度政界の大掃除が必要であり、ワンポイントリリーフとして石
破氏に期待するよりなさそうです。  (松下彰良)


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■編集・発行:(松下彰良/まつした・あきよし)
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