★ バックナンバー索引 ★
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(週刊)バートランド・ラッセル(1872.5.18-1970.2.2)に関するメール・マガジン
no.0670_2020/02/01 (2006/12/21 創刊/毎週土曜 or 日曜日 発行)
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■ 目 次 ■
(1)ラッセルの著書及び発言等からの引用
(2)ラッセルに関する記述や発言等
編集後記
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(1) ラッセルの著書や発言等から
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■「(ほぼ日刊)ラッセルの言葉366」
n.1790〜n.1795を発行しました。
(1) ラッセル『私の哲学の発展』第10章「ヴィトゲンシュタインの衝撃」n.16
『ラッセルの言葉366』n.1791 (2020年01月28日 火曜日)
『数学原理』の第二版(1925年刊)において、私はウィトゲンシュタインの
いくつかの説(学説)について触れた。第2版用の新たな序論で(ウィトゲン
シュタインの)「外延性の原理」を採用し、同書の付録Cのなかで、この原理
に対してすぐに思いつく諸批判を吟味し(considered the obvious objections
to it)、全体として見れば(on the whole)、そういった批評は正しくない
(invalid 妥当ではない)、という結論を出した。この新版における私の主な
目的は「還元公理(還元可能性の公理)」(axiom of reducibility)の使用
を最小限にすることであった。この還元公理は - この後直ぐに説明する-
我々が一方で論理的矛盾を回避し他方で通常争う余地がない(明白である)と
考えられている数学の全ての部分を保持しようとするならば、採用せざるをえ
ないもの(学説)である(必須である)と(私には)思われた。しかし,還元公
理は反論可能であり、また(さらにより重要な点であるが)実際それが真であ
るとしてもその真理性は、経験的なものであって論理的なものではないと思わ
れるがゆえに、この公理は、異論をさしはさむ余地のあるものであった。ホワ
イトヘッドも私も,この公理は我々(プリンキピア・マテマティカ)の体系の
汚点(blot)であると認識した。しかし、私は、少なくとも、その公理をユー
クリッドの平行線の公理と似たものと考えていた。平行線の公理もユークリッ
ド幾何学の汚点と考えられてきたものであった。私は、その公理なしですませ
る何らかの方法が遅かれ早かれ見出されるであろうと考え、そうして、発見さ
れるまでの間は、多くの困難をこの一点に集約しておくことはよいことだと考
えた。そうして、『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の第二版では
、以前はその公理が不可欠だと考えられた多くの場合において、特に数学的帰
納法のあらゆる使用において、その公理をなしですませることに成功した(の
である)。
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.16
In the second edition of Principia Mathematica (1925 ), I took account
of some of Wittgenstein's doctrines. I adopted the principle of
extensionality in a new Introduction and considered the obvious
objections to it in Appendix C, deciding, on the whole, that they are
invalid. My chief purpose in this new edition was to minimize the uses
of the 'axiom of reducibility'. This axiom, which I shall explain in a
moment, seemed necessary if we are, on the one hand, to avoid
contradictions and, on the other hand, to preserve all of mathematics
that is usually considered indisputable. But it was an objectionable
axiom because its truth might be doubted and because (what is more
important) its truth, if it is true, seems to be empirical and not
logical. Whitehead and I recognized that the axiom was a blot upon our
system, but I at least thought of it on the analogy of the axiom of
parallels, which had been considered a blot upon Euclid''s geometry.
I thought that some way of dispensing with the axiom would be found
sooner or later, and that meantime it was a good thing to have the
difficulties concentrated in one single point. In the second edition
of the Principia, I succeeded in dispensing with the axiom in a number
of cases in which it had formerly seemed indispensable, and, more
particularly, in all uses of mathematical induction.
Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_10-160.HTM
(2) ラッセル 「名誉(心)について」(『アメリカン・エッセイ集』)から
『ラッセルの言葉366』n.1794 (2020年01月31日 金曜日)
・・・前略・・・。
行動の指針としての名誉の観念は、廃れつつある。それは全員がお互い知り
合いであり、行動の詳細が噂話として徹底的に調べられた貴族社会において全
盛を極めた。名誉にかなった行動とは、おおざっぱに言えば、同じ階級の間で
尊敬されるような行動のことであった。彼は同じ階級の人間との約束を破るな
らば悪く言われるが、自分より社会的に劣った者との約束であれば、好きなだ
け破ってもかまわないのである。(たとえば)国王が自分の臣下に対する信義を
、そうしたいと思った時にはいつでも破った事例は、歴史上至るところに発見
されるだろう。名誉の観念は、人生とは全ての人が規則に従わないかぎり、愉
快に遊ぶことができない(宮廷風の)優雅なゲームである、とする考え方と堅
く結びついている。ちょうどチェスやブリッジの規則(ルール)と同様、この
(宮廷風の優雅な)ゲームの規則も、彼ら同じ階級仲間以外では、何の役割も
果たさない。つまり、規則(ルール)は単に、ゲームに熱意を与えると考えら
れるものである。困難な時代においては、この行動の規則としての名誉は、消
滅しがちである。・・・中略・・・。
Honour as a guide to behaviour is becoming obsolete. It flourished
most in aristocratic societies where everybody knew everybody and the
niceties of behaviour were canvassed in gossip. Honourable behaviour,
broadly speaking, was such as caused a man to be respected by his
equals. If he broke promises to them, he was ill thought of, but he
might break promises to his social inferiors as much as he liked.
Throughout history it will be found that kings have broken faith with
their subjects whenever they dared. The conception of honour is bound
up with the idea of life as a courtly game which could not be played
with enjoyment unless everybody obeyed its rules. The rules do not
serve any purpose outside themselves, any more than do the rules of
chess or bridge ; they are merely such as are thought likely to give
zest to the game. In serious times honour as a rule of conduct tends
to disappear.
名誉の掟の一部の形態がどれほど奇妙なものであっても、いかなる社会公認
の掟も、特定の点(関心領域)において、人々がお互いに信頼できる利点を持
っている。たとえば、信頼して打ちあけた秘密を、自分の友人が他人にもらさ
ないと確信できることは、大変気持ちが良いものである。これまで存在してき
た名誉の掟の多くは、事実、気持ちの良い社交への障害となってきたけれども
、ある種の名誉の掟なしには、真に気持ちのよい、文化的な社会生活は不可能
ではないだろうか。決闘が幅広く行われていた時期には、ある男の他の男に対
する粗野な態度は、決闘によってその無礼が拭い去られたゆえに、現在よりも
っと大目に見られていた。名誉の形式の多くが奇妙ではあるが、ある種の名誉
は快適な社会にとって不可欠である。この範囲までは、名誉(心)は有益な目
的に役立つ。しかし全ての美質の源泉として扱われるようになれば、本当に重
要な物事すべてへの障害となる。
However curious some forms of honour may be, any recognised code has
the advantage that people can count on each other in certain respects.
It is very pleasant, for example, to be able to count on one's friends
not to repeat secrets that they have been told in confidence. I doubt
whether a really agreeable and civilised social life is possible
without some code of honour, although many of the codes of honour
which have in fact existed were obstacles to pleasant social
intercourse. While duelling prevailed, rudeness from one man to
another was more tolerated than it is now because the duel wiped out
the offence. Although many forms of honour are fantastic, some kind
of honour is necessary to a pleasant society. To this extent honour
serves a useful purpose, but when treated as the source and fount of
all excellence it becomes an obstacle to everything of real importance.
■「(ほぼ日刊)ラッセルの英語」
n.1746〜1750を発行しました。ひとつだけ再掲します。
n.1748 (2020年01月29日)
最所フミ(編著)『日英語表現辞典』(ちくま学芸文庫,2004年1月)を参考に
した「ラッセルの英語_日英語表現辞典シリーズ」(通称 R日英表現)です。
的な(hard-headed 現実的な)人々でさえ,しばらくの間は神秘主義的になっ
た。」]
出典:ラッセル『幸福論』第2章「バイロン風の不幸」
https://russell-j.com/beginner/HA12-050.HTM
[参考]丸山真男「ラッセル(著)『西洋哲学史』v.3-1(近世)を読む」(『思
想の科学』v.1,n.3(1946年12月から)
https://russell-j.com/cool/REV-HWP3.HTM
A しかし個人主義が自由主義の'決定的特徴'とすれば、浪漫主義の系列と自
由主義との関係はどうなるんだい。
B それはね、ラッセルはこう考えるのだ。ルソーとカント以後、自由主義が
二つに分化した。一は hard-headed liberalism で、この糸統はベンサム――
リカード――マルクスを経てスターリンに至っている、他は soft-headed
liberalism でフィヒテ―バイロン―カーライル―ニーチェと発展して、ヒッ
トラーに及んでいる。つまり理知的傾向と主情的傾向というところだろう。
★ idle / lazy (pp.118-119)
https://russell-j.com/beginner/r_nichieigo_hyogen_i01.htm
"idle":2つの語の違いは、lazy には意思があるが、idle にはないという
こと。自分の意思からではなく、「仕事がない状態」を表す。また、「何の役
にも立たない」とか、「根拠がない」(an idle rumor 根も葉もない噂)とい
った意味もある。
"lazy":好き好んでブラブラして物事をしないでいる状態で、「ものぐさ」
といったところ。
* It would be idle (or useless) to argue further.(これ以上議論しても
むだでしょう。)
R英単語・熟語集の用例とはできるだけ重複しないようにしますが、用例が
少ない場合はどうしても重複してしまいます。あしからず。
A.ラッセルの著作における用例
<用例1-1>
Provided a man does not have to work so hard as to impair his vigour,
he is likely to find far more zest in his free time than an idle man
could possibly find.
[気力を損なうほど激しい仕事をしなくてよいのであれば、(仕事を持ってい
る)人は、何もしない(遊んでいる)人間にはとても望めそうもないような強
い熱意を自由時間に感じることができそうである。]
出典:ラッセル『幸福論』第2部第5章「仕事」
https://russell-j.com/beginner/HA25-020.HTM
<用例1-2>
The modern youth who intends to adopt a profession tends to be idle at
school and only to begin hard work when he embarks upon technical
training.
[専門職を選ぶことを心に決めた現代の若者は、通常学校では怠け,専門的訓練
を受ける時になって初めていっしょうけんめい勉強を開始する傾向がある。]
出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ集』の中の「知的水準の低下」
https://russell-j.com/DECAY-IS.HTM
<用例2-1>
Dreams are only to be condemned when they are a lazy substitute for an
effort to change reality.
[夢が非難に値するのは,現実を変えようとする努力の怠惰な代用品となってい
る場合のみである。]
出典:ラッセル『教育論』第二部_性格の教育_第5章「遊びと空想」
https://russell-j.com/beginner/OE05-060.HTM
<用例2-2>
Whereas the Chinese literati were too sceptical and lazy, the products
of Japanese education are likely to be too dogmatic and energetic.
[中国の知識階級(文人)があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対し、
日本の教育の成果は、過度に独断的かつ精力的になる可能性がある。]
出典:ラッセル『教育論』第一部_教育の理想_第2章「教育の目的」
https://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM
B.他の参考例
<参考例1-1>
The workers have been idle for three days because a machine broke
down.
[労働者たちは機械が壊れたので、3日間仕事をしていない。]
出典:『VITAL3000 英単語・熟語』 p.267
<参考例1-2>
I spent an idle afternoon talking to one of my classmates.
[私はクラスメイトの一人と話をして何もしない午後を過ごした。]
出典:『新版完全征服データベース5500 合格 英単語・熟語』 p.299
<参考例1-3>
All the machines in the factory sat idle during the strike.
[ストライキの間、工場の機械の全てが稼働していなかった。]
出典:『鉄緑会 東大英単語・熟語 鉄壁』 p.172
<参考例2-1>
He was not a bad boy; he was only lazy.
[彼は悪い少年ではなかった。怠惰なだけだった。]
出典:『英単語ターゲット1900』 p.119
<参考例2-2>
The captain of the club often complains that the new members are lazy.
[クラブの部長は、新人部員が怠惰であると度々こぼす。]
出典:『VITAL3000 英単語・熟語』 p.143
★「ラッセルの言葉(Word Press 版)v.2, n.1491〜1495
1)n.1491:R『権力−その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.24
https://russell-j.com/wp/?p=5193
2)n.1492: R『権力−その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.25
https://russell-j.com/wp/?p=5196
3)n.1493: R『権力−その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.26
https://russell-j.com/wp/?p=5199
4)n.1494: R『権力−その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.27
https://russell-j.com/wp/?p=5204
5)n.1495: R『権力−その歴史と心理』第12章 権力と統治形態 N.28
https://russell-j.com/wp/?p=5208
★「ラッセルの言葉_画像版」
日本語 version : n.1182j-1188j を投稿
英 語 version : n.1182e-1188e を投稿
一つだけ再録します n.
https://russell-j.com/smart_r366/r366g_j1184.html
「モンテッソーリ式学校」
自分の3歳の息子(注:1921年生まれの長男の John Russell)をモンテッ
ソーリ式学校に入れ,午前中をそこで過ごさせることによって,私は,息子がた
ちまち,以前よりも'しつけ'の良い人間になり,よろこんで黙って校則に従って
いることがわかった。しかし,息子には,外部から強制されたという感情はまっ
たくなかった。校則は,ゲームのルールのようなものであり,'楽しみ'を得る手
段として守られたのである。
On sending my little boy of three to spend his mornings in a
Montessori school, I found that he quickly became a more disciplined
human being, and that he cheerfully acquiesced in the rules of the
school. But he had no feeling whatever of external compulsion: the
rules were like the rules of a game, and were obeyed as a means of
enjoyment.
Source: On Education, especially in early childhood, 1926 by
Bertrand Russell
More info.: https://russell-j.com/beginner/OE01-090.HTM
<寸言>
モンテッソリスクールの場合は、一人あたりの優れた保育士が担当する幼児
の数を少なくする必要がある。国単位でこういった保育学校を普及するために
は、北欧諸国のように、豊かな国で国民の理解がなければ不可能となる。従っ
て、裕福な師弟を集めたモンテッソリスクールに入れられる家庭以外は、理想
と現実のギャップで悩むこととなる。
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(2) ラッセルに関する記述や発言等
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お休み
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編集後記 明日(英国時間2月2日)は「ラッセル没後50年」の日
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バートランド・ラッセル(1872-1970)は1970年2月2日(英国時間)で亡く
なりましたので、明日は「ラッセル没後50年」になります。どこの国でも
「没後◯◯年」よりも「生誕◯◯年」の方をより祝いますので、そういった意
味では、ラッセルがよりとりあげられるのは2022年(2月2日)の「ラッセル
生誕150年」ということになります。
因みに、福沢諭吉の命日は1901年2月3日(日本時間)ですが、どちらも英
国時間あるいは日本時間のどちらかに統一すれば、命日は同じになります。そ
のため、某ラッセル研究家は、慶応の学生の時に2月3日に福沢諭吉のお墓参
りをし、同時にラッセルの冥福を祈ったと、昔、日本バートランド・ラッセル
協会の会報に書いていました。 Long long ago!
それを記念したわけではないですが、so-net上
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/ にあるラッセルのホームページ
の旧サイトを2月2日(50周年目)付けで終了することにしました。 この
サイトを長い間残しておいたのは、このサイトのURLを引用している図書(ラ
ッセル研究の洋書も含む)が数冊あったためです。このホームページもご臨終
です。 (松下彰良)
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■編集・発行:(松下彰良/まつした・あきよし)
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