(エッセイ) 人見康子「ホワイトヘッド + ラッセル(共著)『プリンキピア・マテマティカ』
* 出典:『時の法令』(法令普及会)1982年1月合併号に所収* 再録:人見康子(著)『女性と人権』(慶應義塾大学出版会,1999年)pp.200-203。
* 人見康子(ひとみ・やすこ,1927-1998):慶應大学法学部卒。慶応大学名誉教授,法学博士。専門は民法,家族法。女性少年問題審議会会長(労働省),法制審議会委員(法務省),21世紀職業財団会長などを歴任。
若い頃は,人生は努力をすれば思ったとおりに開けるものと思いこんでいた。英文科学生になることだけを考えて,女学校の三年のとき,バス代を倹約して研究社の大英和辞典を買い,英語だけはいつも九八点以上の成績であった。太平洋戦争の始まりで,せっかく予科飛び越しの津田塾本科に合格したのを振り切って,女子大の数学科に人学して初めて失望の人生を昧わった。戦争たけなわになって,授業よりも学校工場で飛行機の気化器の組み立てに励む毎日は灰色で,休み時間にライブラリーで読書するのが唯一の楽しみであった。
エレン・テリー(1848-1928:イギリスの舞台女優)が主演することを空想して近代劇全集を読みふけったり,英文科学生の読みそうな本を読み,数学の勉強はおざなりであった。しかし,まもなく敗戦となって,授業も再開,さぼった数学科の卒業試験も受けなければならなくなったが,今までの成績は芳しくなかった。とくに苦手の数学書はしばらくの御無沙汰でチンプンカンプンである。そこで,ライブラリーにまた閉じこもり,英語の数学書をあさり始めたが,微分がディファレンシエートすることで,積分がインテグレートすることであることが,いともロジカルに書いてあり,ようやくわかりかかってきた。それから英語の数学を読みあさりだし,たどりついたのが,ホワイトヘッドとバートランド・ラッセル共著の『プリンキピア・マテマテイカ』である。ポアンカレの『科学と仮説』など数学科必読の教養書のいくつかも読んだが,プリンキピアの論理のひらめきは,天才でなければ数学を究めることはできないという感じで,私は絶望の渕に立ちすくんでしまった。
教育熱心な我が家の父親は,常に,最高教育を授けることを念願としていたので,大学の門戸が女子に開かれたとあって,私に進学希望を尋ねた。忘れもしないが,真夜中の父と娘の会談で,私はおずおずと数学をやりたくないのでもう一度英文科に行きたいと申し出た。ところが,弁護土の父は厳然と,文科系に行くなら法科にせよと答え,明日にでも法律書を一緒に買いに神田に行こうとまで言われてしまった。私も既に三潴氏の『法学概論』ぐらい読んでいたし,川上穣治先生の法学の講義は非常に興昧深く聞いていたので,急転直下で法科受験ときまってしまった。偶然と必然の神秘が人生を支配するとは,この時に痛切に感じたのである。
慶應の入学試験の英語は,田上先生が教えてくださった三権分立のところであったから,いとも容易であったし,法学の試験も,父と一緒に買った穂積重遠氏の『法学概論』を全部暗誦できるくらいになっていたから自信満々であった。
こうして,ラッセル先生とは永遠にお別れのつもりであったが,社会科学の勉強を始めると,またもやバートランド・ラッセル氏とはあらゆるところで再会するので,自分の無知ぶりが恥ずかしくなってしまった。
後にイギリスに留学したとき,先祖伝来のベッドフォード公爵家を見学してその広大さに驚いたし(注:ベッドフォード公爵は代々ラッセル家の者が継いでいた。),ロンドン大学の周囲にあるラッセル家ゆかりの地名ラッセル広場やベッドフォード広場にもうかがえる,超一流貴族であることを実感として知った。
ラッセルが一一歳の時,兄からユークリッド幾何学を習い始めたことは,あたかも初恋のごとくめくるめく人生の重大事であったと彼自身が回顧しているが,類い稀な自らの知性をその時に自覚もし始めていたようである。
彼らの著作『プリンキピア』が,数学を論理学に還元しようとした点で一つの頂点に達したものであることは,理論哲学の分野の業績においても功績をあげるにいたる原動力となったようである。
『婚姻と道徳』(Marriage and Morals, 1930)のように性の問題から,宗教,教育,経済,政治など,社会全般についても,知性に満ちた洞察に裏付けられた著作は,反戦思想においては積極的行動を伴っていたし,数回の結婚は,世界の指弾を浴びたりもした。
ラッセルは,生命にのみ専念する生活は動物的であるとして,人間的となるためには,ある意昧で人間的生命の外側にあると思われる目的,つまり非個人的で人類を超えた,神あるいは真理,美,といったなんらかの目的に奉仕しなければならないと言ったが,彼の神はスピノーザの神に近く,キリスト教徒であるにはあまりにも自由な知性の持ち主であった。
私たちが若い時代に思い悩む諸問題について,より的確に答え,より勇敢に実践するバートランド・ラッセルの根底にある自由な知性は,通常人の思い及ばぬ洞祭力に支えられているのである。恵まれた家庭環境がそれらの知作と勇気を創り出した一因でもあろうし,恵まれた交友関係も一因であろう。ウィトゲンシュタインを弟子に持った偶然は,世界の知性への大きな貢献となった。
ラッセルの知性は,創造的諸衡動がよく開花しうる世界としての平和を考え,人の衝動の強さをも,政治,社会哲学の課題とした。
社会哲学において,因習的桎梏からの解放をめざしてとる禁欲主義否定の立場は,魅力的でもあるし,人間存在の根源にもふれるものである。
数埋哲学の難解さに絶望しつつも,社会科学の分野で偶然に再会したラッセルは,かならずしも肉体なき知性ではなく,常人も近寄りうる完成をも有しているようであった。彼の社会哲学を常人はその片鱗をとらえて批判する。しかし,一二歳の誕生日に彼が与えられた祖母からの聖書に記されていた「群衆に従いて悪をなすなかれ」に従って,所信をひとり貫く勇気は,また社会科学を学ぶ私たちにとっても,人きな教訓を与えるのである。