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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

吉田夏彦「ラッセルと現代論理学のスタート」

* 清水幾太郎(編)『近代合理主義の流れ』(平凡社、1965年11月刊 思想の歴史)pp.249-266.
* 吉田夏彦氏(1928~ )は当時、東京工業大学助教授。
* (ラッセル追悼)吉田夏彦「ラッセルについて」(1970年5月)
* (吉田夏彦「ラッセルの数理哲学と論理学」(1970年9月)

理性の尊重と論理性の追求

 理性の尊重と論理性の追求とは、近代合理主義の二大特徴といえるであろうが、数学と実証科学の方法論がほぼ確立してきた現代において、この二大特徴は、必ずしも両立するものではなくなった。理性を、少なくとも数学や科学の認識手段とは異質のものとみなす考え方がでてきて、この考え方によれば、論理性の追求は、思想としての合理主義において、どちらかといえば、二義的な地位を占めることになるからである。また、現代の思想家のなかには、理性の尊重の面からみても、論理性の追求の面からみても、合理主義は、すでに破産しているものとみる人もいる。
 わたし個人の考えをいうと、理性ということばの内容は、現代では、非常に多義的になってしまっているので、理性の尊重という面から、合理主義という思想を特徴づけるのは、もはや得策ではないと思う。たとえば、フッサールの現象学は、理性を尊重するという意味での合理主義に分類されるのが普通であるが、同時に、よく知られているように、現象学は、現代において合理主義の破産を強調するほうでの旗頭である実存哲学が、そこから成長してきたという面をもつ。しかもこのことは、けっして偶然のことがらではない。
 そこで、わたしは、論理性の追求という面に重点をおいて、現代の合理主義をとらえ、この意味での合理主義思想のなかで、論理学、数学、自然科学がもっている意義を論じてみようと思う。
 もちろん、論理性ということばも、ある意味では、はなはだ多義的なことばである。しかし、数学や自然科学において問題にされている意味での論理性に注意を集中し、この論理性をできるだけ客観的にとらえようとした思想がおこってきたことが、現代の思想界の特色といえるのである。だから、この思想を現代における合理主義とよんでさしつかえなかろうと思うのである。
 

現代合理主義の思想

 この思想とは、具体的にいえば、初期のバートランド・ラッセル、初期のヴィトゲンシュタイン、および数学者ヒルベルトらの思想のなかに源を発し、カルナップらの手による整理の時期を経て、今日の科学基礎論の大部分のなかに開花しているあの思想のことである。従来、この思想のことを、論理実証主義とか、分析哲学とかよぶならわしが存在しており、このならわしにも、それなりの意味はあったのであるが、ここでの議論に関するかぎり、これらの名称は、一方ではあまりにせますぎ、一方ではあまりにひろすぎる。たとえば、ラッセルの思想は、論理実証主義の枠ではおおえない点をもっているし、また、通常分析哲学のなかに含めて考えられている、イギリスの日常言語学派の思想は、論理性の追求をそれほど重んじてはいないからである。だからここで主題にする合理主義全体のことを、端的に、現代合理主義とよぶことにする。
 なお、あらかじめことわっておくが、わたしは、現代合理主義だけが、現代の思想のなかで最もすぐれたものであるとか、現代合理主義は、人々が合理主義についてもっているイメージと完全に一致するものだとか、主張するつもりは、全然もっていない。たとえば、今世紀の物理学界における二大事件であるところの、相対性理論と量子力学との出現は、思想としての現代合理主義において、じゅうぶんな表現をうけているとは、必ずしもいえないのである。むしろ、物理学者自身が、この二大事件の与えたショックについて、解説している書物のほうが、これらの理論の、思想的な重みを、よりいきいきと伝えている面がある。また、実存主義者が、しばしば指摘するように、現代合理主義は、現代の人間の、思想に対する要求を、じゅうぶんに満たそうとは、必ずしもしていないのである。これらの現代合理主義の限界については、本文中でも、おりにふれて述べることになろう。
 

初期の論敵たち

の画像  ところで、現代合理主義についての叙述は、バートランド・ラッセル(1872~)の思想から筆をおこすのが適当であると思う。もっとも、彼はよく知られているように、たいへん長命な(1965年当時)現存の人物であり、その哲学活動も、非常に長年にわたっているので、その思想を、一まとめにしていいあらわすことは、むずかしい。そして、彼自身がその創始者の一人であるところの現代論理学の、現代における発達水準からふりかえってみるとき、彼のものの言い方、考え方は、必ずしも論理的に筋の通ったものであるとはいいきれない点を、多数含んでいる。にもかかわらず、初期のラッセルが、どういう思想を論敵としていたか、どの方向に哲学の行くべき方向を見いだしていたか、それからこれは、現代にいたるまで彼のなかでたもたれている姿勢であるが、彼が、いかなる理由で、学問としての哲学と、個人的な生活上の信条とを区別しようとしてきたか、を考えるとき、やはりラッセルを現代合理主義の初期を代表する思想家とみるのが、最もふさわしいことのように思われてくるのである。
 まず、彼の論敵からみていこう。初期、だいたい一九一〇年を中心とし、前後二、三〇年にわたる期間のラッセルが、いちばん意識していた論敵は、オクスフォード大学の教授ブラッドリ(一八四六~一九二四年)であろうと思われる。このブラッドリは、十九世紀の後半から二十世紀初頭にかけ、すなわちへーゲルの影響が強かった時代のイギリスにおいて、一種のパルメニデス的一元論を唱えた人であり、彼自身、一種のへーゲル主義者に分類されることもあるが、その思想の特色は、一見はなはだ論理的にみえる論証を縦横に駆使して、世界のなかにおける多様性の存在から矛盾を導きだし、そこから唯一者としての絶対の存在を証明しようとする点にあった。ラッセルは、もちろん、ブラッドリの論証そのもののなかに、欠陥を見いだそうとつとめはしたが、同時に、彼の強調した点は、ばかげた結論に導く論理は、それだけで不健全な論理であると疑うべきだということであった。そしてまた、論理は、複数の選択肢のうちのただ一つの選択肢をのこして他はこれをすべて否定するという方向に用いられるよりは、二個以上の、あるいは無数の論理的可能性の存在を示す方向に用いられるべきである、ということを、当時のラッセルは強調した。そして、このような要求を満たすものとしての、新しい論理学のすがたを、多くの人々に伝えることに、彼は一種の使命を感じていたようである。この新しい論理学とは、フレーゲやペアーノの記号論理学にほかならない。
 

ブラッドリの論証の方法

 実をいうと、記号論理学が、ラッセルの要求にかなう意味での新しい論理学であるとする主張には、いささか無理があるのであるが、それはとにかく、論理主義者ラッセルの第一の論敵が、これまた論証を重んずるブラッドリであったということは、注意をはらっておいてよいことである。そこで、ラッセルの批判の的となっていたかぎりでの、ブラッドリの論証の方法について、少し紹介しておこう。
 われわれは、ふだん、この世界のなかには、無数のものが存在していると思っている。早い話が、たとえばラッセルという哲学者やこの本を読んでいるあなたや、この章の筆者であるわたしや、そのほか無慮何十億の人間がこの地球上にひしめいているし、さらに、無数の動物がおり、植物がはえ、鉱物が存在している。そしてこれらの無数の事物は、互いに孤立しているのではなく、それぞれなんらかの関係によって結ばれている。たとえばあなたとわたしは、この章の読者と筆者という関係で結ばれている。ところで、ブラッドリの考えによれば、この関係は、それが、むなしいものでないためには、それ自身、その関係が結びつけている項と同じような実在性をもったものでなくてはならない。すなわち、それ自身一つの項でなくてはならない。ところが、そうなると、この項としての関係と、この関係によって結ばれている項とを結びつける、第二の関係が必要になってくる。この第二の関係についても、同様なことがいえ、以下同様にして、無限にいたる。すなわち、仮に、この世のなかにただ二個のものがあるとしてさえ、たちまち無限の数の関係が必要となり、これは不可能なことであるから、けっきょくこの世のなかにはたかだか一個のものしかありえないということになる。
 この種の論証方法は、実をいうとブラッドリ特有のものではなく、ロッツェやロイスにも似たような論証があり、たとえばウィリアム・ジェームズは、この種の論証を克服するための手段として、ベルグソンの生の哲学を、よろこび迎えたのであった。
 

ラッセルの反論

 それはとにかく、この種の論証は、現代の人々に対して、なにほどかの説得力をもっているであろうか。明らかに、この論証には、それ自身は証明なしに提出されている二個の大前提がある。その一つは、関係に、その関係によって結ばれている項と論理的に同じ身分を認めようとする主張である。さきほどの例に即していえば、読者であるあなた、および筆者であるわたしと同じようなものとして、あなたとわたしとの間の関係を認めようとする前提である。第二の前提は、いわゆる無限背進は不可能であるとするものである。
 第二の前提から問題にすると、無限背進それ自体が不可能なものであるということは、少なくとも論理的に必然的なことではないようにわたしには思われる。また第一の前提についていえば、あなたとかわたしとかいう具体的な人間と、これらの人間を結んでいるそれ自体は抽象的なものであるところの関係とを、同じ観点のもとにとりあつかわなくてはならないということもまた、論理的に必然的なことではないように思われる。だから、少なくとも、わたしの目からすれば、この種の論証は、論理的に有効なものではなく、しかもそのことをみてとるには、特に記号論理学の知識をもちだすまでもなく、いわゆる論理的良識があれば、それでじゅうぶんと思われる。
 しかし、ラッセルは、関係とその項とを、記号のうえでもはっきり区別する新しい論理学のやり方を強調することが、ブラッドリの論証の不毛さをはっきり示すのによい手段であると考えていたようである。このラッセルの考え方は、一面において彼のいわゆるタイプの理論に通じるものである。すなわち集合とその元とを身分上区別するのみならず、集合、集合の集合、集合の集合の集合等*を、それぞれ互いに論理的な身分のうえではっきり区別しようとする考え方が、タイプの理論の基本的な構想なのである。しかし、現在の論理学界においては、タイプの理論は必ずしも、必然的なものとは考えられておらず、むしろ一階の述語論理のなかで公理的集合論を展開する傾向のほうがさかんなことを、ここにつけくわえておく必要があろう。
*集合論: 十九世紀後半、ドイツの数学者カントルがほとんど独力で創始した集合に関する数学的理論。集合とはものの集まりのことで、個々のものを集合の元という。集合論では主として種々の集合の濃度と順序が問題とされる。カントルの理論はその後種々の逆理を生み、現代数学の展開に貢献した。これらの逆理を避けるいくつかの安全な公理から演繹された体系が公理論的集合論である。
 

第二の論敵ベルグソン

 さて、ラッセルの第二の論敵は、フランスの哲学者ベルグソン(一八五九~一九四一年)であった。よく知られているように、ベルグソンはゼノンの論証を引用し、科学的な運動の分析方法の限界を指摘し、そこから運動の実相をつかむ手段としての直観の必要を説いた哲学者である。これに対しラッセルはゼノンの論証が一見有効にみえたのは、古代ギリシアにおいて、まだ真の無限の概念がよく理解されていなかったからであるとし、ドイツの数学者カントル(一八四五~一九一八年)によって発見された無限概念を使えば、ゼノンの論証の難点からわれわれはたやすくまぬかれることができるとした。そして一方、ベルグソンのあれほど重んじる直観についていえば、一見それがもっとも有効に使われると思われる自己認識や、恋愛の場合においてさえ、それがしばしば大きなあやまちを犯すことを指摘した。
 またもや、ここでわたしの考えを述べさせてもらえば、ゼノンの論証が有効なものでないことは、ラッセルのいうとおりであるが、そのことは、必ずしもカントルの集合論をまつまでもなく、明らかなことであると思われる。最も有名な「アキレスと亀」のパラドクス(第一巻『ギリシアの詩と哲学』参照)についていえば、無限個の点を有限時間内に通過しなくてはならないとする前提が、一見矛盾をはらんでいるようにみえるが、これは文字面にこだわったときにのみ、矛盾と思われることにすぎない。つまり一点を通過するのに、どんなに小さくとも、ともかくもゼロではない有限の時間が必要であると仮定すれば、確かに無限個の点を通過するのに有限時間ですむということは、アルキメデスの法則に反するけれども、実は一点を通過するのに有限時間が必要だということは、なにも運動の数学的な分析のうえで必要な前提ではないのだから、アルキメデスの法則との矛盾は別に生じないわけである。ところでアルキメデスの法則とは次の命題*のことである。
* 命題論理・述語論理 記号論理学の用語。「このばらは白い」「本日は晴天である」というような命題がいいあらわす意味を問題にせず、これらの命題を「そして」「あるいは」「ならば」「ではない」の結合記号(接続詞)で結びつけた場合になりたつ命題(たとえば「このばらは白い、そして、本日は晴天である」)の論理的な性質を研究する範囲を命題論理という。述語論理は、命題論理の結合記号のほかに「存在する」「すべての」という二つの量限定記号を用いてなりたつ命題(たとえば「すべての学生が勤勉ならば、ある学生は勤勉である」)の論理的な性質を研究するものである。
 a,、bをそれぞれ正の実数とする(だから、a、bはそれぞれ正の有理数であってもよい)。
 このとき、正の整数nが存在し、このnに対してn×aはbよりも大である。

 また、飛んでいる矢が静止しているとするあのパラドクスは、少なくとも二個以上の時点を含む時点集合に対し、はじめて運動概念が定義されていることを忘れ、ただ一個の時点における矢の運動状態をたずねるという、実は無意味な問いをたてるところから生じるのである。だから、ラッセルが、ゼノン論破に、カントルの集合論をもちだすのは、少し道具がおおげさすぎるといわなくてはならない。また、ベルグソンの直観についていえば、これはベルグソンの表現方法に多少の責任があり、ラッセルの誤解もやむをえない点はあるけれども、ラッセルの意味での、自己認識や恋愛が、必ずしもべルグソンの考えていた直観の適例ではないことを、ベルグソンのためにいっておく必要があろう。あるいは、あえて読み込みをおかしながら、ベルグソンを弁護すれば、冷たい知性からみればはかない錯覚をおかしているとみえる直観が、実は錯覚ではなくものごとの実相をつかんでいるので、錯覚はむしろ知性がおかしているのだと、ベルグソンはいいたいところであろう。しかも、ベルグソンは'知性による錯覚'がときに有用なものであることを否定していない。
 このほか、ラッセルの論敵には、ダーウィンの進化論とへーゲルの弁証法の影響のもとに、十九世紀末から二十世紀の初頭にかけてさかんであったさまざまの進化論哲学(ベルグソンも、ときにその一人に数えられる)があり、あるいはマイノング流の実念論があるが、ここではそれらにはたちいらない。
 要するに、当時のラッセルの論争の方法は、ときに不必要なほどおおげさに、新しい論理学や数学の哲学の方面における効用を強調したきらいなしとせず、また論敵の真意を完全に理解していたとは思えないふしもあるのであるが、とにかく、論理性に重きをおいた点では合理主義的な姿勢のものであったといえるであろう。
 

論理学上の古典『数学の原理』

 論争という消極的な面から、目を『数学の原理』に転じ、体系の建設という積極的な面からながめれば、当時のラッセルは、ホワイトヘッド(一八六一~一九四七年)との共著『数学の原理』三巻(一九一〇~一三年)(松下注:ここでは、Principia Mathematica, 3 vols. のことを指しており、注意が必要である。ラッセルには、The Principles of Mathematics, 1903(『数学の原理』)という有名な著作があり、それと区別するために、Pincipia Mathematica は『数学原理』もしくは『プリンキピア・マティマティカ』と通常表記される。)の執筆に心血を注いでいたのであった。この『数学の原理』(→『数学原理』)は解析学の算術ヘの還元、算術の論理学への還元というデデキントやフレーゲといったドイツの数学者たちの手によってかなりの程度着手されていたしごとをうけつぎ、これを完成しようとしたもので、その際、日常言語*のあいまい性からくる論理的飛躍を避けるために、論理記号を徹底的に使用していることは有名なことである。このとき、算術がそこへ還元されていた論理学が実は集合論にほかならないこと、論理記号の使い方が、必ずしも厳格ではないこと、これと関連して、集合概念の分析が徹底的ではなく、両義性をのこしていることなど、今日の目からすれば、問題になる点は多々あるけれども、全数学の公理化、記号化をこれほど大きな規模で果たした書物はこれ以前になかったのであって、その意味で、この書物は、論理学上の古典の一つとなっている。
*日常言語学派: 日常言語とは、歴史的な言語、われわれが日常使用する言語のことで、理想言語などの人工言語に対する。日常言語学派はオクスフォード学派ともいい、分析哲学の主流とみなされる。G.E.ムーアや後期のヴィトゲンシュタインの影響をうけ、ライルらに代表される。「意味をたずねるな! 用法を問え」がこの派の方針で、日常言語の誤用を除き去るべく、その分析にうちこんだ
 この『数学の原理』(→『数学原理』)およびそれにさきだつ一連の論理学的研究が、ラッセルの哲学におよぼした影響は、次の二点に要約することができよう。
 

「オッカムのかみそり」

 第一に全数学の集合論への還元のなかに、ラッセルは哲学的な分析の好範例を見いだしたのである。つまり、科学や数学の理論が、いくつかの基本前提から出発し、演繹的な方向にのびていくのに対し、哲学の任務は、これらの基本的な前提が、より少数の、より基本的な前提に還元できないかどうか、また、基本的な前提のなかにあらわれている概念の数を減らすことができないかどうか、を調べ、もし可能な場合には、実際にこの還元や減少を行なうことであるとする考え方が、強められたのである。これは、「存在は必然性なしに増加されてはならない」といういわゆる「オッカムのかみそり」の現代版を提唱することになるわけであるが、この「かみそり」愛好癖は現在にいたるまで、現代合理主義の特色の一つとなっている。
 ここで注意しておかなくてはならないのは、科学の発展においても、「オッカムのかみそり」と似たようなものが使われていること、しかしそれは、この「かみそり」とまったく同じものではないことである。つまりよく知られているように、科学の発展をささえている原動力の一つは、できるだけ少数の法則と概念とで、できるだけ多くの現象を統一的に説明しようとする努力であり、この努力は、具体的には、生物学を、物理学や化学に還元し、化学を物理学に還元し、物理学の法則を一つの体系に統一しようとする努力となってあらわれているといえようが、しかし、他面この努力だけが科学の発展の原動力ではないということにも注意しなくてはならない。
 実際の科学研究者が、しばしば指摘するように、理論の論理的整合性、統一性は、科学においては必ずしも、論理学においてと同じ程度に、優先権を与えられているとはかぎらない。現場の科学者に多少とも共通の直観像への忠実さのほうが重んぜられることもあり、また意識的に行なわれる論理的飛躍がいきづまりの打開に役だつこともある。このような、いわば完全には合理化できない要素が、科学の発展の重要な原動力であることを、ともすれば、現代合理主義は、いいおとしがちであり、あるいは少なくとも軽視しがちである。このことは、歴史的には、ラッセルが現代合理主義の初期の代表者であったことと、関連があるように思われる。もっとも、最近では、科学基礎論の研究者が、科学史の成果に考慮をはらうようになってきたため、この欠点は、大分あらためられている。
 

論理記号の哲学への応用

 第二にラッセルは、論理記号の徹底的使用が『数学の原理』(→『数学原理』)にもたらした成功に深く印象づけられ、哲学の諸問題の記述および解決もまた論理記号の使用を不可避の条件とする場合が多いと考えるようになった。このことは、後年、数学や論理学において有効であった手段を、そのまま無反省に哲学の領域に転用しようとしたものとして、日常言語学派等から、激しい批判をうける原因となるのであるが、その後の哲学の発展を先どりしてから、今度はラッセルに同情的な見方をしてみると、伝統的な存在論の問題は、カテゴリー(範疇)論の問題であると解釈することができ、カテゴリー論が論理学と密接な関係にあることは、アリストテレスの昔から明らかなのだから、現代における存在論の諸問題の記述および解決が、現代論理学ときりはなしては論ぜられないという見方もじゅうぶん成立しうるのである。
 ラッセル自身は、日常言語学派をたいへんばかにしているのだが、日常言語学派が関心をもつ問題もまた哲学の問題であることをわたしは否定しない。しかしラッセル的な論理学の哲学への応用にも、じゅうぶん今日的な意味があることを、ここにいっておこう。この方向をうけつぎ発展させている哲学者としては、たとえばアメリカのクワイン(一九〇八~)がいる。また、科学基礎論の論文のなかには、科学の諸理論が公理化されたうえで、論理記号によって完全に形式化されたかたちを想定し、この形式的体系についての基礎理論的考察を通じてさまざまな問題をとこうとするものが、かなり多数あるが、これもまたラッセルのこの方向を継承しているものといえよう。ただし、この点を詳しく考察するときにはヒルベルトの形式主義数学基礎論の影響をあわせて考慮することが必要になるが、この点についてはあとで触れよう。
 

哲学と生活信条との関係

 次に、哲学と生活信条との関係についてのラッセルの考え方にうつろう。ラツセルは今日、平和運動家として有名であるが、社会問題や政治問題に彼が関心をもったのはなにも最近のことではなく、ドイツ社会民主党(主義)の研究がその処女作であったことからも知られるように、彼は若いときから政治問題や社会問題の分析に興味をもち、のみならず必要と感じた場合には実践運動によってその主張を通そうとすることも辞さない人間であった。現に第一次世界大戦中は、反戦運動をやって、牢屋に入れられたこともよく知られていることである。さらに彼は、宗教批判家としても有名であり、好んで宗教家との論争に応じたりしている。要するに、彼は単に書斎の哲学者なのではなく、街頭に立ち、マスコミに活躍する、行動の人でもある。
 これには、彼が政治家の家がらに育ったこと、自由思想家を両親にもち、幼くしてその両親を失ったのちには、祖母のもとで一種独特の宗教教育をうけながら、同年輩の友人をもたないまま青年期にいたったことなどが、心理的な原因となって働いているであろうと想像される。このように、激しい倫理的および宗教的要求(反宗教も一つの宗教であるという見方をここではとることにする)をもっているラッセルが、哲学にその要求の解決を求めたとしても、不思議ではない。事実また、ラッセルが哲学におもむいた原因の大半は、そこにあったと彼自身が告白している。しかし、ここが世の常の思想家とラッセルの違うところなのだが、彼は、哲学がこのような要求を満たしうるものではないことを見ぬき、そのことを甘受したのである。つまり、学問としての哲学は、人生いかに生くべきかの問題とは、けっきょく無縁のものであるとするのが、思想家ラッセルの特色である。つまり、哲学をラッセルと共有し、生活信条において正反対である人間がじゅうぶんありうることを、ラッセルは認めるのである。
 これは、少なくとも学問としての哲学に対して、論理性を強く要求するところからきた現象であるが、この要求がはたしてすべての思想に対してあてはめられるべきものであるかどうかは、疑問である。思想は確かに、一面において論理性を要求するけれども、その部分から部分への移行が常に論理によって行なわれなければならないとはかぎったものではなく、むしろ心理的な連関のほうが意味をもってくる局面もあるのだから。たとえば、実存主義哲学者が、数学や物理学における、いわゆる危機現象を出発点とし、そこから実存哲学への一つの通路を見いだそうとするとき、その議論のすすめ方には、多くの論理的飛躍があるが、おそらく実存主義哲学者の心中では、この道筋は心理的にはごく自然なものと思われているのであろう。そして、何人かの人々が、この論理的には飛躍に満ちた議論を通じて、今までは見すごしていた、しかしながら気がついてみればはなはだ重大な問題に対して目を見開かれたとすれば、それはそれで意義のあることであり、このとき実存主義哲学は、思想として重要な役割を果たしたということになろう。ただラッセルのような、論理性に忠実であろうとする人にとっては、この種の議論は説得力をもたないというだけの話である。しかし、ラッセルのような気質の人も、世のなかには存外多いとみえて、この哲学と広義の倫理問題との分離という禁欲主義的な傾向は、その後ながく、現代合理主義を支配して今日にいたっているのである。だが例外もないではない。たとえば論理実証主義者ノイラートなどには、現代合理主義と一つの政治的運動とを結びつけようとする意欲があった。
 

現代合理主義と現代経験論

 ラッセルの思想の特色は、以上に述べた面に尽きるのではなく、歴史への深い関心や、実証科学の発展をできるだけ多方面にわたって消化しようとする、どんらんな意欲にもある。したがって彼は、人類のもつ知識の全体を、たとえひろく浅くではあっても大衆にわかりやすいかたちで組織的に述べることにも、哲学者の重大な任務があると考えており、現にその方面の著作も少なくない。またイギリス経験論の伝統にたつ認識論の展開にも彼は大いに貢献しており、その感覚所与理論は、現代経験論に対し、大きな影響を与えている。そしてこの感覚所与理論*に論理学技巧を応用し、感覚所与から出発して、自然科学全体を論理的に再構成しようという、雄大な構想を、彼は、しばしば述べている。しかし、この方面の彼の哲学的業績は、ここでの主題である現代合理主義とは、直接の論理的関係はないので、今はたちいって説明はしない。
*感覚所与理論 ラッセルの理論。ラッセルは認識を直接知(熟知による知識)と間接知(記述による知識)に区別する。直接知は感覚所与、すなわち対象が感覚を触発することにより与えられる「個別」と「普遍」の知識よりなる。つまりラッセルの特色は感覚所与による個別者とともに、普遍者を同格に存在すると認める実在論にある。
 ただ、この点と関連して、一言つけくわえておきたいのは、現代合理主義と現代経験論との関係についてである。くりかえしいうように、現代合理主義とは、現代論理学の発展によってその内容が明らかにされてきた意味での論理性に重点をおいて展開されている思想のことである。そのかぎりでは、この思想は、世界観上のさまざまな立場、観念論、唯物論、経験論、キリスト教主義等のどれとも、特に密接な関係はもたず、また逆にいえば、どの立場とも調和しうるものであった。ついさきほど述べた、ラッセルにおける、生活信条と、哲学との分離も、このことを裏書きしている現象の一つであるといえる。しかし実際には、現代合理主義を発展させた人々の多くは、同時に経験論者であり、したがって彼らの個人的な思想生活においては、経験論と合理主義とが、あたかも不可分のものであるかのように密接に結びついていることが多い。この心理的には必然的な、論理的には偶然的な現象は、かなりのちまで現代合理主義の発展に大きな影響をおよぼすことになるが、ラッセルの感覚所与理論への執着もまた、この現象の一部であるといえよう。