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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

土田杏村「ラッセル氏の恋愛観」

* 出典:『表現』大正12年(1923)9月号 pp.44-48.
* 土田杏村(1891~1934): 評論家。1918年京大文卒,哲学専攻。大正中期には文化主義を提唱。自由大学運動で有名。

 思想と生活とは二重になる事ができない。思想は即ち生の一部だ。生活が生きて動くものなら,思想も生きて動かなければならない。或る細菌をある温度下に培養し,決してそれ以上には増殖しない,という風な固定状態に止めて置けるものが我々の思想ならば,我々はそんな思想にお目にかかることからご免をこうむりたいものだ。――大ざっぱな言い方だが,私はこんな風に,生活と思想との関係を考えている。恋愛についての思想に於ては,特にそのことが言われるであろう。恋愛は生活の中の最もパッショネートな部分だ。恋愛の思想が現実の生活を離れて,単に概念的に論ぜられるとすれば,そんな議論をする人こそ――玉の盃の底なき心地のする人物で,取るに足るまい。(松下注:「玉の盃の底なき心地」なきは,吉田兼好の『徒然草』からとられたもの。玉<ぎょく>とは翡翠<ひすい>などをいい,ヒスイでできたたせっかくの盃なのに,底から水が漏れてしまうような気分がする,といった意味)

 ラッセルの恋愛観――と標題を書いたとき,私の頭の中には一昨年(1921年)の夏,ミヤコホテル(松下注:京都市の「都ホテル」:2002年4月より,ウェスティン都ホテル京都。右下写真の奥に見えるのがウェスティン都ホテル京都)喫煙室でラッセル氏夫妻と談笑していた二三日の視像が去来する。
 はっきりとその日を記憶しないが,何でも七月の終り,丁度今日此頃の様な晴れた暑い日であったと思う(松下注:7月21日午後5時~,京大教授26名が出席)。始めて氏にお逢いする日は,早くから格別に暑い日であつた。タクシイが(京都市)丸太町の通りを急速力で走つていた時は,人車さへ沢山通らない朝の早くであつたが,私の胸は,此の巨大なる哲人に始めて逢う嬉しさを以て躍っていた。
 市街を俯瞰する,あの広い喫煙室で,我々が終日議論をを交していたときには,健康な筈のブラック夫人は,その頃はまだ正式の夫人とは呼べなかったとも言えないが――わきにあった横臥椅子の上か何かに横になり,始終微笑をたたえて,我々の議論に聞き入っていた(松下注:ドラは当時,妊娠していた。)。西洋の礼法に慣れない私は,女性が男性に対した場合の儀礼を知らないから,それが日本であったら,何だか無作法な挙動である様に思えた。夫人はどっちかと言えばコケティッシュな,明るい感じのする,若い女性であった。恐らくは,ラッセル氏とは年齢も大分違うのではないかと思われた。
 次の日(松下注:7月22日),我々が市中の見物に出て,先づ第一に知恩院(右写真)を参観したとき,お寺では土産物として,氏にいろいろのものを贈った。ブラック夫人がそれを手に受け,眼の前に高く捧げて,本当に嬉しそうに廊下を歩いて行く様子は,どう見ても二十歳代の女学生であった。ラッセル氏は,微笑を以てそれを目送した。革命者(松下注:ラッセルのこと)の家庭にも,普通のそれと少しも違わない,穏やかな感情が流れた。
 靴をはいて庭を歩き出すと,ラッセル氏は何を思ったか,胸をうんと後ろへ反らし,ステッキを振り,得々たる紳士の姿で二三間ほど脚取りよく,歩き出した。病後のラッセル氏は,殊に脚を痛め,始終ビッコをひいて弱っていたのであるが,此の快適な天気やなごやかな気分によつて,そっとそんな冗談をして見る気になったのであろう。皆んなは大笑いに笑った。ブラック夫人も本当にに可笑しそうに,腰を曲げたり伸ばしたりして,大笑いをした。我々はすっかりその家庭的な,親しい空気によって取りつつおれる(?)のだった。しかし,何だか氏夫妻が,夫妻というよりは親子の様に見える気がした。
 清水の石段を昇る時は,流石のラッセル氏も(病後まもないため)すっかり参って了った。二段上ってはまた休むという風にして,漸くその石段の半ばまできたときに,ラッセル氏は,そこで全く立止って了い,「自分はここで待っているから皆んなはそれに構わず,上へ行って見物してきてくれ」と言いだした。そういう場合にもブラック夫人は,先きに立って石段を上がって行くだけで,手を取るとか,脇を支えるとかいう事はなかった。私にはそれが何だか異様に思えた。西洋の礼儀としては此れが普通なのかも知れない」と考えた。男女の対等の独立を主張しているラッセル氏夫妻としては,此れが当然なのだろう」とも考えた。そのラッセル氏は,帰国早々,正式の夫人から訴えられ,裁判は,氏の敗けとなつた。その頃,ラッセル氏は,恋愛の三角関係に立ち,ブラック夫人(注:ドラ・ブラックは当時未婚なので,この表現は少しおかしい)の新しい愛人なのであった。(松下注:最初の夫人アリスとは,1911年以降別居しており,行き来なし)
 恋愛や結婚についてのラッセル氏の考えは,根本的にこの社会制度の考察から離れていない。西洋の宗教やそれに従った社会の慣習道徳のために,現代人の性的生活が,いかに歪曲せられた不自然のものになっているか,又,それを巧みに瞞着して行くために,いかに非人格的な虚偽が公然と行われて行くかを嘆じて,此の性的生活及び性的道徳の正しい状態に進むためには,何としても社会制度そのものが更改せられなければならぬと論ずるのである。
 現代人は,多くの富を持っていない。その富の乏しい,しかしながら精神的には優れた教養を持った人達が,自らを満足させる様な活動をしようと思えば,多くの子女を持つことは,何よりも大きな脅威をその上に加える事である。それ故に彼等は,頻りに産児を制限する。人口問題は,今後の大問題になろうとしている。無産労働者階級の中で精神的に優れた部類は,皆な此の産児制限の仲間へ加わって行く。いつまでもその多産を続け行くのは,財産もなく,また精神的進歩の素地も無い無学な群衆である。此に於てか,前者の集群は益々その人口を稀少ならしめ,精神的に劣った民衆の集群により,始終圧迫せられる。その結果は我々の文明の上に恐るべき危機をもたらしはしないか。
 ラッセル氏は,人口問題にかような批評を下した後,そうした危機を脱するためには,子女の生活や教育を社会が負担する制度になることが必要だと主張した。
 現在の社会では,国家の法律が実にうるさく,男女の結婚に干渉を加える。けれども結婚は男女の私的問題だ。その間の私的道徳だ。法律がその中まで立入って干渉のできる範囲ではない。国家はただ,子女の問題を通してのみ,結婚に干渉し得る。法律は離婚に就き,面倒な規定をしており,容易に離婚することが出来ない。またよし,離婚の条件がすっかりでき上ったにせよ,愈々正式に離婚をするには,裁判の手続きを経なければならぬ。しかし貧民は,そんな費用などを持っていない。結局富者のみが離婚をなし得ることとなる。
 かように論じているところが,あたかも後年の氏の運命を予見するものになつたのは,奇縁である。


 ラッセル氏は次に,解放の過渡期にある男女の性的道徳を論ずる。
 男女は,今や漸く旧代の信仰から解放せられ始めた。女性は男性に隷属すべきものだなどとは,解放せられた今の男女は考えていない。男女全くの対等的地位に立って接触しようとする。けれどもそうした解放の男性は,対手を征服しようとする征服欲をまで,完全に克服し得ているか,殊にその征服欲は,男性の性欲において最も強く発揮せられる。理論の上ではどんなに征服欲から解放せられたと称する男性も,行為の上ではその性欲の征服性を脱却することができないでいる。しかしもちろん,解放せられた女性は,自らの個性を擁護するために,男性のこの征服に屈従しようとしない。男女の葛藤がそこに始まる。然るに男性は,女性により性的本能を抑圧せしめられたりすれば,それが何か自らの生活の活力を減少せしめられたものの様に減ぜられ,益々強く彼の征服欲をあおられる。男女間の争闘は激しくなり,両性は容易に結婚しない。両性はだ瞬間的に享楽のために,手段のために関係するものとなり,性的道徳は頽廃する。――それが解放せられた現代の男女の追求しつつある途だ。
 しからばこうした性的関係は,どうすれば救済せられるか。ラッセル氏はあらゆる救済法がそれには無力であるといって,絶望の声を発した。ラッセル氏の根本的の考えによれば,我々の本能と知性と霊性の三者が常に区別せられて行く。そして知性は,本能の調節(コントロール)に甚だ大いなる力を発揮することができないと見る。我々の霊性の問題は宗教である。ただその宗教が,わずかに本能に究極の統制を与え得るかも知れない。それ故に,我々の性的道徳の危機を救済するものもまた,結局は新らしい意味の宗教的信仰の外にはあるまいと,ラッセル氏は論じている。

 ラッセル氏もまた,恋愛の人生における価値を至上のものと見る。至上だといふのは,恋愛はすべての価値の上る(松下注:最上位にくるもの?)というのではなくて,恋愛の価値もまた,思想や芸術の価値と同じく,人生において最高のものだというのである。しかし,若き女性が一時的瞬間的に経験する様な愛は,人生観として甚だ狭隘のものであり,我々の行為のより高き意義の原動力となる事はできない。が最高の価値を発揮するためには,我々の無限の目的と結びつくことにより,一層意味の深められたものにならなければならぬ。そうした恋愛は,無限に努力して達成せられはしないが,しかし永遠に生長して己まない,その人間の生活である。しかしこうした男女の関係は,概ね彼等子女を産んだ後にくるものである。我々の中年は,青年男女の知らない人生観と安心とを持つに至るものであり,青年の間に(松下注:青年期に)子女を欲しなかった恋愛も,後にはその子女において究極の意義を見出そうとするに至るであろう。
 ラッセル氏は必ずしも一夫一婦制に固執しなければならぬとは言はない。一夫一婦の関係が幸福に行ったとすれば,それに越したことはあるまいが,しかし人間益々複雑化せられて行く要求のために,一夫一婦の関係が保持せられない場合はいくらも起こってくる。それ故に離婚の自由が社会に保たれて行かなければならぬ。他はすべて彼等の良心と信仰とに委ねられなければならぬ問題である。


 以上は,氏の恋愛観の大略であるが,それにつき私が大いなる興味を持つことは,恋愛の価値を最高と見たこと,けれどもその価値が完全に発揮せられるためには,社会制度の更改を必要とすること,一夫一婦制は社会的に強制せられるべき道徳でないことなどの諸主張である。更に面白いことには,此等の諸点は,社会主義者やアナキストに――もちろん中にはアントン・メンがあの様な場合もあるが――共通の意見になっていることである。恋愛は社会制度という歴史的関係から絶縁せられ,何れの時代の恋愛でもない,真空排気鐘内に押込められたそれとして取扱はれた時には,すべての美しい草花と同様,窒息枯死せしめられることであろうと思う。