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はじめに(谷川徹三・ラッセル協会会長) -『社会主義ヒューマニズム』への序文

* 出典:ケン・コーツ(編),日本ラッセル協会(訳)『社会主義ヒューマニズム』(理想社,1975年8月刊 311pp.)
* 原著: Essays on Socialist Humanism, ed. by Ken Coates, Spokesman, 1972

訳書『社会主義ヒューマニズム』の表紙画像  バートランド・ラッセルは、貴族の中の貴族の家柄に生まれた。父母が若死にしたため、彼は幼年から少年時代をロンドンの郊外リッチモンド・パークのペンブローク・ロッジの祖父母の家で育てられたが、このペンブローク・ロッジは祖父ジョン・ラッセル伯がヴィクトリア女王から賜わった邸であった。祖父は第6代ベッドフォード公爵の3男で、ヴィクトリア時代ホイッグの統領として首相の座にもつき、その功績によって初代ラッセル伯爵となった人である。ラッセルは幼い頃そのペンブローク・ロッジで女王に引見されたり、畏敬の念をもってグラッドストーンを仰ぎ見た思い出を語っている。

 そのラッセルが後年、社会主義と民主主義と個性の自由な伸長とを1つに結ぶ可能性を追求する社会主義ヒューマニズムの立場に立った、平和の闘士となったのである。

 ケンブリッジ大学の学生としてのラッセルは、先ず数学と哲学とでその優れた才能を示した。1897年出版の学位論文 An Essay on the Foundations of Geometry や、1900年の A Critical Exposition of the Philsophy of Leibniz、1903年の The Principles of Mathematics は、若年にして学者としての彼の名声を確立した。その間彼はその師ホワイトヘッドと共同して『プリンキピア・マテマティカ』の大著に手を染めることになるのであるが、1901年春(ラッセル29歳の時)、たまたま泊りに行ったホワイトヘッド邸で、夫人の激烈な心臓発作を見て、1つの精神的転機を迎える。
「いきなり大地が足もとからくずれ出したような想いがして、私は今までと全く別の世界にいるようた気がした。」
 そう『自叙伝』でラッセルは言い、それがひいて、「人間の魂の孤独には堪えがたいものがある」こと、それを救うものは愛のみであること、「戦争は悪である」ことの啓示になったことを告白している。これは一生知的誠実を貫いたこの人が、同時に繊細な感受性の持ち主でもあったことを証している。
 その啓示は1914年第1次大戦勃発の際の反戦運動となって、彼を牢屋へ送ったが、それはまた彼を自由党から労働党に移らせ、良心的参戦拒否の「徴兵拒否組合」に入らせ、秘密外交に反対する「民主管理同盟」やギルド社会主義運動にも加わらせることになる。そして1917年(出版)の『政治理想』では、次のように言わしめている。
「国家の絶対主権に対する主張に正当な理由がないのは、個人の同じような主張の場合と同一である。絶対主権に対する主張は、事実上、すべての対外問題が純粋に力によって規整されるべきだとする主張であり、……これは原始的無政府状態、ホッブズが人類の原初の状態だとした '万人の万人に対する戦い' でしかない。」
 まさしく第2次大戦後の彼の平和の構想、世界政府の構想を先取している。
 これは、彼が晩年ベトナムにおけるアメリカの残虐な戦争のやり方を告発し続け、そういうやり方が必ず失敗するとの予言が、今日ではすでに現実となっているように、やがて、いつの日か現実となるであろう。さもなければ人類は破滅の日を迎えなければならぬであろう。(本邦訳書『社会主義ヒューマニズム』の出版は1975年5月、米軍がベトナムから撤退完了したのは1973年3月29日。右写真は、ラッセル著『ベトナムの戦争犯罪』(1967年刊)口絵より)

 ラッセルはウドロー・ワイアットとのB.B.Cテレビ対談で、哲学とは何かと問われて、「哲学とは、正確な知識を云々することのまだできない事柄についての思弁だということになりましょうか」と答え、次いで哲学と科学との違いはどこにあるかと問われて、「大ざっぱに言えば、科学とはわたくしたちに分かっているもの、哲学とはわたくしたちに分からないもの、でしょうかね。……このために幾つかの問題が、知識の進歩につれて、絶えず哲学から科学へ移りかけているわけです」と答えている。そしてその哲学の効用の1つを、まだ科学上の知識に従属せぬ物事についての思弁を活発にしてくれること――目下のところ科学にも殆ど分からない事柄で、人類の大きな関心のまとになっているものを、仮説の領域で想像的世界観として展開することに見出すと共に、もう1つの効用を「わたくしたちが分かっていると考えていたもので、実は分かっていないものがあるということを示すこと」、「知識のように見えるものが、いかに知識でないか、それをわたくしたちに謙虚に気付かせてくれる」ところにある、と言っている。

 ラッセルが自ら社会主義者をもって任じながら、社会主義の、特にその1形態たる共産主義の教義の中にひそむ数々の陥穽に対する厳しい批判者となっているのは、彼が本質においてそういう哲学者だからである。彼はあらゆる領野における狂信の有害を生涯にわたって説き、そのために右からも左からも、絶えず誤解と攻撃にさらされた。彼の理論や実践の多面性、時には進んで見解を修正もするが、時には矛盾を含んだままの多面性の中に見られる彼の一貫性はそこに由来する。

 本書はそういうラッセルに敬愛の念を抱く学者たちが、人類の現在並びに将来の運命に重要なかかわりをもつ問題意識の中で、ラッセルの取り上げている諸問題を、直接に、また間接に取り上げている諸論文を(サルトルの場合におけるような対談をも含めて)集めたものである。彼等はその学問的専門の立場や実践の経験から、必ずしも彼に同調しない。中には一見彼にそっぽを向けているように見える論稿さえある。しかしそれこそ平俗な常識と教条主義的狂信とをあれほど嫌って、自由と個人的創意とを重んじた彼の却って喜ぶところであろう。