スイスから祖国を見つめて-笠信太郎氏らの日米和平工作
* 出典:『朝日新聞』1992年2月21日(金)朝刊? 掲載* 笠信太郎氏は,初代の日本バートランド・ラッセル協会会長
八年前から「戦争と平和」をテーマにしたドキュメンタリー制作を続けているテレビ西日本(福岡市)の第十作「祖国へ~スイスからの緊急暗号電」が(1992年2月)二十九日,フジ系で放送される。
太平洋戦争末期,スイスを舞台にひそかに画策された日米和平交渉の動きを中心に,米国側の思惑や日本側の考え方などが浮き彫りにされる。こうした和平の動きそのものは,すでに明らかにされていることだが,番組は,その陰で日米の仲介役として尽力した当時の朝日新聞欧州特派員だった笠信太郎氏と,親日家だったドイツ人フリードリッヒ・ハック氏を中心に構成されている。いまはともに故人となったが,残された史料や電文,記録写真,当時を知る人々の証言などから,二人の姿が浮き上がってくる。
自己の信念と相容れない,それぞれの祖国の国家体制。苦悩しつつ,それでも尽きない祖国への愛。ディレクター・坂田卓雄と撮影・編集の平川寛らスタッフは,単なる終戦秘話としてだけでなく,戦争と平和のはざまで揺れた人間・笠をも描きたかったようだ。
「この機を逸しては戦はついにとどまるところを知らず……もし一人の真の名将あらば,ホコを捨て,敢然,大君と国民とを守らん……」外務省に残されている,スイスから緒方竹虎・内閣顧問にあてた笹氏の暗号電報だ。電文はさらに,ドイツ敗戦後の国民の苦しみを述べ,戦後の米ソ対立の構図をも予見している。ドイツ敗戦直後の一九四五年五月に打電された。ハック氏は第一次世界大戦時,中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となり,福岡の収容所に入れられたが,捕虜を優遇した当時の日本の姿勢に,すっかり親日家になった。笠氏も福岡の出身でそのころは中学生。この二人が,ともに戦時体制下で危険思想の持ち主として軍部からにらまれ,スイスで出会ったのは単なる奇遇だろうか。当時,日本政府は和平の仲介役としてソ連を考えており,笠氏らの工作は実を結ばなかった。
笠氏は戦後,朝日新聞論説主幹として活躍。戦争のない世界の実現を目指す世界連邦運動を提唱。一九六七年に他界。
このシリーズは,世代交代が進むなか,いまのうちに昭和史の検証をと,一九八四年から始まった。ハック氏側の証言者探しには苦労したようだが,「史料も多く,どういった視点から番組を構成するかがポイントだった。四十時間分回したVTRを一時間余に編集するのが大変でした」と平田は話している。