岩松繁俊「バートランド・ラッセルの自由論と社会変革論」
* 出典:『理想』1970年9月号、pp.26-33.* 岩松繁俊氏は当時、長崎大学教授。2001年10月現在、原水禁国民会議議長(1997年より)、長崎大学名誉教授
ラッセルの言葉366 |
ところで、ラッセルが自由の擁護者であったということは、ただちに、西側のいわゆる "自由世界" の擁護者であり・社会主義の反対者であった、ということであろうか。
「ラッセル、特に晩年のラッセルは、共産主義の忌憚ない批判者としてひろく知られており、そのために、マルクシストの陣営から理論的にも政治的にも終始はげしい攻撃を受けてきた。」(碧海、前掲書、p.155)「ラッセルをしてマルクス哲学に強く反対させる最大の理由はその教義的・宗教的メシア的性格およびそこから生ずる不寛容の雰囲気である。……この立場が1896年以来最近までかわっていないことは、1957年に(ポール・エドワーズを編者として)出版された論文集『なぜ私はキリスト教を信じないか』(Why I am not a Christian, and Other Essays, 1957)の序文に徴してもあきらかである。」(碧海・前掲書、p.161)
その序文には、つぎのようにのべられている。「わたしは、世界の大宗教-仏教、ヒンズー教、キリスト教、回教および共産主義-はすべて真でないと同時に有害でもある、とおもっている。」(Why I am not a Christian, p.v)「少数の堅信者の独裁を奉ずる共産主義の信仰は、かずかずのおそるべき結果をもたらした。」(Ibid., p.vii)
これらによってみれば、本稿の主題である自由論と社会変革論にかんして、われわれは、自由論の"擁護"、社会変革論の"否定"という命題で、結論を要約することができそうである。
しかし、はたして、ほんとうに、そうなのであろうか。、さて、われわれは、ラッセルの自由論と社会変革論とを論ずるにあたっては、"時間"の流れにそって考察をすすめていかなければならないであろう。かれは、その一世紀におよぶ長い生涯のなかで、75年間もの長期間にわたり、たえず自由や社会体制の諸問題について、思索をめぐらしてきたのであり、したがって、それらは、ある時点のみに限定して考察すべき問題ではないからである。ただ、ここでは、紙幅に制限があって、その思想の時間的推移の詳細を、ひとつひとつの文献にあたって確認する余裕がない。ここでは、とりあえず、ソビエト革命(1917年)ののち、実際にその社会主義社会を見聞して執筆した1920年の『ボルシェヴィズムの実践と理論』(The Practice and Theory of Bolshevism)、その2年まえ、生命の危険と弾圧に屈せず、反戦のために果敢にたたかって投獄されることとなる数日まえに執筆を完了した『自由への道』(Roads to Freedom, 1918)、核戦争の危機がますます切迫した1950年代の思索をまとめ、1961年に出版した『事実と虚構』(Fact and Fiction)、そしてアメリカ帝国主義のヴェトナム侵略がますます凶暴さをくわえた1960年代から逝去の直前までに執筆した多数の論文やアピール、これらを考察の主要対象として、とりあげることとしたい。
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ラッセルのソビエト社会主義にたいする批判は、このように痛烈であって、仮借ない。かれは、反ソビエト体制論者であった。では、かれは、反社会主義者なのであろうか。資本主義擁護の保守反動家なのであろうか。答えは否である。かれは、れっきとした社会主義者である。「わたしは、社会主義は世界にとって必要である、と信ずる。そして、ソビエトの英雄的行為は、将来、社会主義を実現するばあいに不可欠の方法で、人間の希望をもえたたせた、と信ずる。」(p.7)「文明世界が、社会主義組織を計画して、ソビエトの例を継承しようとするのは、おそかれ早かれ、ほとんど確実だとおもわれる。わたしは、この計画が、きたる数世紀のあいだ、人類の進歩と幸福とにとって不可欠であろう、と信じている。」(p.83)
ソビエト社会主義を徹底的に批判するラッセルが、それでもなお、社会主義者であるということに、奇異な感じをもつひとがあるかもしれない。この奇異感は、社会主義=ソビエトという固定観念に由来する。いったい、ソビエト社会主義以外に社会主義は存在しないのだろうか。否。ラッセルにとって、社会主義は、けっしてソビエトのそれのみではない。では、かれがよしとする社会主義とは、どういうものであろうか。
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すなわち、ラッセルは、社会主義を、広狭二義にわけ、広義には、無政府主義とサンディカリズムとをふくませる。そして、これら多種多様の社会主義のなかで、ラッセルが、結局において、もっとも好意をよせるものは、一種のギルド社会主義である。
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ところで、ラッセルが、ボルシェヴィズムを否定し、その他の社会主義を批判して、アナーキズムに接近したギルド社会主義をベストとした理由は何だろうか。それは、かれの自由尊重の原理に由来する。すなわち、かれにとって、"自由"と"社会変革"とは、矛盾し、分裂し、対立するものではなく、一体となって結合しているものである。『自由への道』のなかの他の個所で、かれは、つぎのようにのべている。「自由の観点からみて、どのような組織がベストなのだろうか。どのような方向へ、われわれは、進歩のちからをはたらかせるべきなのだろうか。しばらく、他のあらゆる事情を無視して、この観点からみれば、わたしは、最善の組織は、クロポトキンが主張した組織からあまりへだたらず、さらに、ギルド社会主義の主要原理の採用によって、もっと実践可能なものとされた組織である、とかんがえる。」(p.127)
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ところで、上述の思想は、反戦運動やボルシェヴィキ革命の研究に没頭した1920年前後の壮年時代ラッセルの思想であって、そののちのラッセルは、資本主義を擁護したはずである、との反論がなされるかもしれない。ところが、この反論は幻想にすぎない。
ラッセルは、『自由への道』第三版への序言において、かれ自身の基本的見解を訂正する必要がまったくないことを強調している。1948年6月に執筆したこの序言の一節にいう。「ソビエト連邦における権威主義的非民主的な社会主義の創造は、本書の多くの議論と非常に密接な関連があるが、それ自体、ここに主張した意見を訂正する必要性を何ら示唆しない。官僚体制の危険性は、じゅうぶん強調されている。そして、ソビエトにおこったことは、じつにこれらの警告が正しかったことを確証したのである。」(p.5)「わたしが当時好意をもっていたギルド社会主義は、依然として、称讃すべき提案である、とわたしはおもう。そして、わたしは、それの擁護論が復活してくるのをみたいとおもう。」(p.6)
われわれは、30年もまえに到達したかれの社会主義像が、微細な点の変更をのぞき、基本的にはいささかもゆるいでいない点に、ふかい敬意をはらうべきであろう。のみならず、かれの社会主義像における枢要な論点は、この30年間にますます重要性をました。かれは、確信をこめていう。「社会主義のもとでできるかぎり多くの自由を保持するという問題は、当時よりも現在の方が、ますます緊要性をましている。この問題にかんして本書でのべていることの大部分は、いまも正しいとわたしはおもう。」(p.7)
さらに時代をさがって、かれの見解をみてみると、どうなるであろうか。1954年、いわゆる原爆時代がおわりをつげ、水爆時代に突入した。その年の12月、BBC放送を通じて、原水爆禁止を切々と訴えたラッセルは、さらに翌1955年7月9日、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表して、全人類に、平和への方途についてきびしく訴えた。
この「宣言」は、周知のように、ラッセルの反戦平和運動において、画期的な意義をもつ重要な宣言である。その画期的なゆえんは、国家や体制の一員としてでなく、人類の一員という立場にたって、平和を訴えた、という点にある。すなわち、全人類がひとしく危機に直面している今日、ある国家、あるイデオロギーというひとつの立場にとらわれてあらそうことは、まったくナンセンスである、というのである。いまや、社会主義(共産主義体制)がいいか、資本主義体制がいいか、という東西対立の基本問題は、全人類の破滅の危機のまえには、まったく無意味となった、というのである。
ラッセル自身、このころ、ソビエト体制を否定的に評価していた(1953年3月5日、スターリン没)。その否定のきびしさは、西側体制にたいするそれよりも大であった。『事実と虚構』のなかの「自由とは何か」の章(1952年執筆、1960年加筆)において、経済的自由にかんして、つぎのようにのべている。「経済的自由……は、実際には、あるひとが法律にしたがい、かつ働く意志があるかぎり、そのひとを餓死させてはならない、ということを意味する。自由放任主義(レッセ・フェール)は、こういう結果になることを保証できない。社会主義は、そういう結果を達成しようと希望してきた。しかし、ソビエト式の社会主義は、資本主義がそのもっとも無慈悲な時代にその経済的自由を破壊したよりもはるかにひどく、それを破壊した。」(p.56)
さらに、自由のための教育を論じて、かれはこうのべている。「ソビエト人は、じぶんたちが共産主義を代表しているとかんがえ、他方、アメリカ人は、じぶんたちが民主主義を代表しているとかんがえている。しかし、事実はどうかといえば、これらのイデオロギーのレッテルは、いくらか真実をふくんではいるものの、多分に国家主義をおおいかくしているのである。」(p.70)すなわち、東西両陣営の指導国の実態は、いずれも、レッテルとはちがい、国家主義の立場にたっているとして、ラッセルは、いずれをも批判する。しかし、その批判の調子は、自由の観点にたって、ソビエトにたいする批判の方が、西側にたいしてよりもはるかにきびしい(p.72)。
ラッセル個人の好みはこのようでありながら、しかし、人類全体の核破滅の危機のまえには、いずれの体制をえらぶか、という問題は、のんきな閑話にすぎない、というのである。反戦平和の問題において非同盟中立主義の立場をとったかれは、社会変革にかんしては、好悪の判断をつよく拒否し、いずれの体制になろうとも、それは人類滅亡よりははるかにましではないか、という立場をとったのである。
1962年7月のモスクワでの世界平和大会、および8月の長崎での原水禁大会へのメッセージにおいて、ラッセルは、この立場を、つぎのように表現した。「わたしは、西側の全代表者にこうのべてもらいたいのです。『核戦争は、共産主義の世界制覇よりもまだわるいと確信する。』と。東側の全代表にこう宣言してもらいたいのです。『核戦争は、資本主義の世界制覇よりもまだわるい。』と。そのように宣言することをこばむひとは、東西いずれの側のひとであれ、人類の敵、人類絶滅の主張者という烙印をおされるでありましょう。」
ところが、ソビエトのフルシチョフ首相は、この声明をたかく評価したのに反し、アメリカのケネディ大統領はこれを無視した。おなじ年の10月22~28日における「キューバ危機」は、アメリカが核戦争に訴えてでも、ソビエトを屈服させようとの意図をもっていることを明白にばくろした。他方、ヴェトナムにおいては、長期にわたるフランスの植民地支配と侵略のあと、1954年7月、ジュネーヴ協定成立の直前に、かいらいゴ・ジン・ジェムを擁立し、フランスにかわってヴェトナム侵略を開始したアメリカは、翌年10月、ヴェトナム共和国と称するかいらい国家をつくり、"自由"な統一選挙を妨害し、テロと拷問と処刑のおそるべき農民弾圧政策を強行し、1961年以降、化学毒物を散布し、1962年以降には毒ガスさえ使用して、ヴェトナム人民絶滅の侵略をおこなってきた。このヴエトナム侵略戦争の実態については、ようやく西側でも報道されるようになり、周知のこととなったので、ここでは省略するが、この侵略者こそ、西側陣営の指導者を自任するアメリカなのである。
ラッセルは、アメリカのこの残虐きわまりない戦争犯罪行為を、くりかえし弾劾してきたが、ついに、1965年7月、「世界平和にたいする脅威がアメリカ帝国主義にある」ことを明確に宣言するにいたった(ヘルシンキにおける「平和と民族独立と全般的軍縮のための世界大会」へあてた声明)。ここに、ラッセルは、反戦平和の問題において、中立主義から反帝国主義へ転換したのである。しかし、この転換は、ただ平和主義の局面でのそれを意味するばかりではない。人間にとっての真の自由を保障しうる社会へむかっての西側資本主義体制の変革要求を意味する。
アメリカ帝国主義は、世界人口の6%による世界資源60%の収奪支配、世界の飢餓と病苦の増大、大量殺人、強制労働と拷問であり、その護衛のための3300の軍事基地、核ミサイル、核爆撃機、核原潜、BC兵器の体制であり、巨大独占企業と戦争に奉仕する科学者との複雑大規模な権力複合体制である。ラッセルは、生命・財産と自由とを破壊しふみにじるアメリカ帝国主義を、人類にたいする極悪非道の犯罪者として告発し、死の直前まで、全世界人民(アメリカ人民をふくむ)の果敢な抵抗闘争を訴えつづけてきた。「アメリカの良心へのアピール」(1966年)のなかで、かれは、つぎのように訴えている。「あの膨大な軍事機構、巨大な企業合同、および共産軍の情報機関、これこそ主要な敵であり、悲惨と飢餓の根源であると、三大陸の人民はかんがえています。アメリカ軍隊の援助によって存続している諸国の政府を検討してゆけば、その体制は、結局、富豪、地主、および大資本家を支持していることがわかるでしょう。このことは、ブラジル、ペルー、ベネズエラ、タイ、南朝鮮、日本において真実です。」
しかし、もちろん、その"自由"のための社会変革、反帝国主義闘争は、ただちに、ソビエト体制の全面肯定を意味しない。それは、1968年8月20日深更チェコスロヴァキアヘ侵入したソビエトおよびその同盟国にたいするラッセルのきびしい非難にあきらかである。ラッセルは、ソビエトの軍事介入の35日もまえに発した声明のなかで、こう断言している。「チェコスロヴァキアの時計の針をもとにもどし、スターリン主義あるいは資本主義を復活させようとしている東側あるいは西側の保守主義者たちは、世界中の反対に直面することをさとるでありましょう。……チェコスロヴァキアの民主勢力は、全世界のひとびとに、社会主義というものは、もともと、自由と関連をもった運動であるということを、おもいださせています。自由のための闘争を妨害するものは、みな反動的です。」ラッセルによれば、ソビエトの介入は、「チェコスロヴァキアの基本的自由にたいする抑圧」(『ガーディアン』紙への投書)である。
しかし、ラッセルのソビエト非難をもって、その"反アメリカ主義の訂正"とうけとるものがあるとすれば、それは重大な誤謬をおかすことである。すでにくりかえし論じてきたところから明白であるように、かれは、アメリカ帝国主義を弾劾・告発し、他方、社会主義者としてソビエトのスターリン主義を非難する。アメリカ帝国主義を非難してきたもののみが、ソビエトを非難する資格をもつのである(1968年9月24日の声明)。
ラッセルは、おなじ年の10月22日、チェコスロヴァキア人民にあてたメッセージのなかで、つぎのように重要な発言をおこなっている。「わたしは社会主義者です。わたしは帝国主義をきらい資本主義による人間の醜悪化をきらいます。わたしは、また、官僚政治あるいは専制政治による社会主義の醜悪化をきらいます。わたしは、人間活動のあらゆる領域での人間の解放を待望しています。わたしは、勇敢なヴェトナム人民にたいする残虐なアメリカの侵略に、多年にわたって、反対してきました。わたしは、強大な隣国にたいする弱小国の権利、専制的な政府にたいする個人の権利をまもるのに熱中しています。」
チェコ事件は、ラッセルが、終始、徹底して"自由"を主張し"変革"された社会を要求してきた闘士であったことを、きわめて明確に証明する世界的事件であった。真の社会主義は、"自由人の連合体"(マルクス『資本論』第一篇第一章)なのである。(1970.07.20)