バートランド・ラッセル(著)『懐疑論』への訳者あとがき
* 出典:バートランド・ラッセル(著),東宮隆(訳)『懐疑論』* 原著:Sceptical Essays, 1928/訳書:みすず書房,1963年7月刊。278pp.
* (故)東宮隆氏(1912-1985)略歴
* 写真は、日本バートランド・ラッセル協会の研究会で講演する東宮隆氏
訳者(東宮隆)あとがき
本書を読み終って、私は、(本書)扉にしるされた、「愛し、かつ考えること―それこそ人間精神の真の生活だ」という、ヴォルテールのことばと、この書物の内容とを、あらためて想いくらべざるをえなかった。この題辞が18世紀の懐疑的啓蒙哲学者に対する著者の愛着をあらわすものであり、この哲学者と著者との一種の親近性を示すものであることは、もちろんであろうけれども、それは、現代世界に絶望しかけた著者の、その絶望の淵から希望に身をひるがえそうとする際の、拠りどころをなすことばでもあるようにおもわれる。
今世紀の非合理の嵐を前にし、また非合理な信念が正義の名で流行している現代世界において、世界の真の進歩は、実際と理論双方の上での合理性の増大にあるというのが、本書の主題である。しかし、これだけならば、この書物の著者をまたなくても、ほかにいくらもそのような主張を持った人はいるであろう。げんに、理論の上での合理性の探究は可能であっても、実際の上での合理性の伸長は困難だというくらいのことならば、誰もが直接にいだいている感想であり、理想を遠くに置いて遅々とした現実に半ばあきらめをいだくということならば、これまた私達の偽りのない気持でもあるからである。問題は著者がこの主題を展開してゆく際の徹底的、破壊的――と同時に一脈の寛容をひそめた――批判と、積極的、現実的、建設的な提案とにある。
懐疑、知性、理性の支配下に置くべきものは何か。科学的精神習慣はこんにち安泰と言いうるか。科学に軽信性はないか。科学的発見に必要な知的能力を持つ人々のあいだに、信念と感情は存続しうるか。本能の本性の必要としているものは何か。これらの疑問を通して、著者は、羨望の狂気をいましめ、科学的な気分の普及を唱道し、科学の上での現代的なものを受け入れようと努めながら、反面において、単調を破る冒険をすすめ、東洋的怠惰を讃え、中世的価値にあこがれ、「無用」の芸術をたいせつにすることを忘れない。著者の合理主義と懐疑には、ドラスティックで勇ましいものがあるが、しかしそれが通りいっぺんの合理主義や懐疑におわっていないのも、このためであろう。
1963年5月 東宮 隆