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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

バートランド・ラッセル(著),柿村峻(訳)『哲学入門』への訳者あとがき(後語)

* 出典:バートランド・ラッセル(著),柿村峻(訳)『哲学入門』(社会思想研究会出版部,1953年2月刊。198 pp.)
* 原著:The Problems of Philosophy, 1912.
* (故)柿村峻(明治39年~?):東大文学部中国哲学科卒、熊本女子大学教授

後語(訳者)(1952.12.01)

 ここに『哲学入門』の名の下に訳出したのは、1912年来、版を重ねること20回に及ぶラッセルの名著 The Problems of Philosophy (The Home University Library ser.) である。この書には、種々の特色あるが、要約すると次の二つになると思う。
 その一つは、哲学を研究する態度、哲学の精神を平易な文章を以って明らかにした点である。彼は観念的に走らず、たえず卑近な例を駆使して、現象、実体、物質、知識、概念、真理、哲学の価値及びその本質等の哲学の峰々を心ゆくばかり案内し、じゅんじゅんと「愛知」の精神をさとしている。必ずしも彼の所説に同意しないものといえども、彼が哲学を私達にとって親しいものにしようとする試みには、敬意を表しなければならない。真にこの書は、哲学に対する着実な情熱と愛着を感得させるものである。かの哲学を難解として放棄するもの、或いは哲学を絶対視してこれに溺れようとするものにして、この書をひもとけば、思いの改まる感があるだろう。原書紹介の辞に「哲学は、私達のすべての問に答えることは出来ないとしても、世人の関心をまし、日常もっともありふれたものの中にも、一皮はげばひそんでいる不可思議と脅威を示す問題をたずねさせる力を持っている。このささやかな著書で、バートランド・ラッセルは、普通の人々にはむつかし過ぎるとよく誤って言われる知識の面に対し、分かり易くて人をはげますような手引きをしている」と記されてあるが、ラッセルのこの書に於ける精神を端的に表現しているとみるべきである。哲学を志すものは、哲学の限界を知らなければならない。さりとて、失望すべきではない。この書に接すれば、真に着実な勇気が、湧き出るものである。世の多くの哲学を説く書は、ややもすると生命なき哲学の地図である。これは、はつらつとした哲学の旅行記である。いわば、生きた哲学の入門の書とすることが出来よう。
 他の一つの特色は、ラッセルの哲学の立場を示す点である。或る意味では、ロック以来のイギリスの哲学思潮が、大陸哲学の洗礼を受けて辿り(たどり)ついた結果とみるべき彼の知識論が、実在論的思考と数学的思惟を背景として述べられていることである。我を離れた実在に関与する道を説き、心が、心の外にある宇宙を極めることによって、偉大になるという点に、又真偽の標準は、心以外の実在にあるという点に実在論的立場がうかがわれる。
 かれは、現象と実体との区別より出発する。現象は、感覚的所与(データ)より成立し、実体は、所与に対するものとする。而してすべてが心にあるとするバークレ(バークリ)は、思考する対象と思考の作用を混同していると批判する。かくて感覚的所与を土台とし、それを越えて実体を知ろうとする知識の問題にうつる。これにうながされて、知識を直接知(acquaintance)による知識と、それに基づく記述(Description)による知識に区別し、後者によって、私達は狭い経験の世界から脱していく。かような経験以上の知識を可能にする一般原理として帰納の原理思考の原理をあげ、これに関してロック、ヒュームなどの経験論者、ライプニッツ、デカルト等の理性論者等を批判しつつ、それらの法則は、経験によって発見されるが、経験によって証明されない先見性を持つことを説いた後、先見知識の問題に移る。ここに於いて、先見的原理が、客観的事物になく、主観の側にあるというカントの立場を批判し、(ラッセルは、カントの批判哲学には必ずしも反対していない)それらの原理即ち先見的知識は、心の性質であるばかりでなく、世界のすべてに妥当する性質であるとする。即ち先見的知識は、心的でも物的でもない。心や物のような存在でなく、「関係」や「性質」である。この先見的な世界こそ哲学の主要な問題であるが、この世界は如何なる存在であるかと問い、プラトンのイデア的存在に類するものとした。但し、(プラトンの)「イデア」には、神秘的な趣があるとして、この語をさけ、普遍概念(Universal)の語を用い、さきの先見知の世界を普遍概念の世界として考察を進めた。この概念なしには、あらゆる文章が成立しないように、あらゆる真理もこれなしには成立しない。一切の根本となるから、心でつくられたものでなく、時間空間(時空)を超越した存在だといって、その実在論的立場を示す。この普遍的概念の知識には、やはり直接知によるものと記述によるものとがある。色、空間関係、時間関係の普遍概念に関するものは直接知によって得られるが、この概念相互の「関係」の普遍概念に関する知識は、記述によることが多い。こうして事実以外の関係がとりあげられるようになるから、事物の知識の外に、判断に関する知識が浮かび上がって来る。さて事物の知識に、直接知と記述知があったように、これにも直接知と派生知の区別があるとみた。
 判断に関する直接知は、自明の真理といい、感覚に直接与えられたものを述べたもの、論理や数学の原理等がこれに当たる。その派生知は勿論自明のものより導かれたものである。この判断による知識には、事物の知識と違って、真偽の信念の問題が起こる。判断による知識には、真なる信念、偽なる信念の区別がある。その真偽を区別する標準として、信念とその外にある事実との一致、不一致をあげ、実在論的傾向を示し、その関係を数理的に論じている。凡そ真の信念に達するには、自明の前提から確実な推理をしていかなければならないが、事実、それは困難なことが多いから、今日正しい知識、判断とされるものは、蓋然的なものに過ぎないと断定する。したがって、哲学に於いて、はかなき形而上学的方法で、宗教の教理、宇宙の合理性、物体の虚妄を説くべきでないと戒め、ヘーゲルの絶対的観念論を駁し、物体の実在、時間、空間の或る意味での実在を主張し、哲学は科学とともに歩むべきであり、たえず知識を批判し、誤謬の皆無をあせって求めず、その減少こそ志すべきであるといっている。
 以上は、彼のこの書の思想の大様であり、一切の知識は、直接知を基とするとしているが、しかし現象と実在とを区別し、心の外に物があるということは、果たして直接知によって知られるか、ここに問題があると思う。
 以上、二つの特色を分けて述べたが、実は、この二つが、調和して一体となった所に、この書の最も優れた点がある。誰しも、彼が「哲学は実利をもたらさないから無用だ」とする俗見に抗して、「確答を求めず、問題に接する為に、哲学を学ぶべきだ。問題こそ、人の心を豊かにし、智慧をます」という彼の態度には、同意を禁じ得ないだろう。

 ラッセルは、1872年生まれ、ケンブリッヂ大学に学び、数学をへて哲学に至ったイギリス最高の哲学者であることは、衆知のことである。又、社会思想家として有名であり、1921年には日本に来遊したこともある。哲学関係の著書には、この書の外に、次のものがあ る。
An Outline of Philosophy
History of Western Philosophy
Our Knowledge of the External World, as a field for scientific method in philsophy
Human Knowledge; its scope and limits
An Inquiry into Meaning and Truth
Introduction to Mathematial Philosophy
The Philosophy of Leibniz
Sceptical Essays
Mysticism and Logic
 この中の An Outline of Philsophy は、本書の反形而上学的で現実に即して真理に迫ろうとする思想の発展したものである、Human Knowledge 等は、本書の知識論を展開したものであろう。
 この訳業に関しては、熊本女子大学の同僚諸賢のご協力を仰ぎ、又、新井慶氏の訳書を参照した。この訳書とは、時たま見解を異にあうる点もあったが、益する所が多かった。又拙訳の刊行にあたっては、樋口欣一氏夫妻、江上照彦氏の高配を辱うし、又社会思想研究会出版部の土屋実氏の並々ならぬご親切に浴した。併せて謝意を表する次第である。
 1952年12月1日 熊本にて 柿村峻