佐高信「懐疑する哲学者の孤独感:ラッセル(著)『西洋哲学史(みすず書房)』」
* 出典:[佐高信『私を変えた百冊』p.78.* ラッセル落ち穂拾い:(ラッセル関係文献「以外」の図書などでラッセルに言及しているものを拾ったもの)
・・・。大学四年の時、『展望』の「唐木順三と語る」という座談会に出て、七千円をもらった。そのころの七千円である。それで、この原書(A History of Western Philosophy, by B. Russell)を買い、残りは寮友におごったおぼえがある。
そして、買ったからにはと、読み始めたのである。当時はなんとか読む力があった。「建設的懐疑」というコトバが一番印象に残った。「愛はエゴの固いカラを破る」は『幸福論』の中にあったような気がする。ケインズにも影響を与えたという『怠惰への讃歌』(In Praise of Idleness)という本もラッセルは書いている。彼の目くばりは本当に広く、かつ深いのである。
一八七二年にイギリスに生まれた数学者で哲学者の彼は、一九七〇年に九十七歳で亡くなったが、九十歳をすぎてなお、核兵器反対のデモに参加し、すわりこみもやっている。
三歳にして両親と死別し、孤児となったが、祖父のジョン・ラッセル卿に育てられた。そんな経験を背景にラッセルは言う。「子どものときに孤独で、人からともすれば疎まれがちであったような人のほうが、周囲から暖かく励まされて育った人よりは、偉大な仕事をなしとげることが多いのではないだろうか。」学生時代、ホワイトヘッドやケインズと知り合い、'現代のヴォルテール'と呼ばれるようになる思想を育む。
一九二二年に労働党候補として下院に立候補するも落選。のちにアメリカに渡り、アメリカには「群衆の専制」があり、ロシアには「少数者の専制」があると指摘した。
晩年にも「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表したり、アメリカのヴェトナム戦争を裁いた「ラッセル法廷」(議長はサルトル)を企画したりと、死のときまで活動をやめなかった。「父は絶望を寄せつけないでおくために戦っていたのであり、一般向けの著書の楽天 的なビジョンも、父の頭にやすやすと浮かんできたのではなかった」と娘は言っている。
『中国の問題』(The Problem of China, 1922)では魯迅に皮肉られるほどに中国を礼讃したが、この裏には「白人以上であろうとする」日本への嫌悪があった。ラッセルは「米国は中国の最良の友であったし、また日本は中国の最悪の敵であった」と言っている。「科学は人を合理主義に走らせやすいと想像するのに、日本における科学的知識の普及は、日本文化の中でも一番時代錯誤的な特色である'天皇崇拝'の一大強化策に合体されてきた」というのも痛烈な批判だろう。
コモン・センスの哲学者、ラッセルは、それが失われているところで、最も光を放つと言えるかもしれない。