バートランド・ラッセル「感覚与件( sense-data )」
* 出典:牧野力(編/著)『ラッセル思想辞典』* 原著: Mysticism and Logic, 1918, chapt. 8 & 10
以下は、遠藤弘 氏(故人/当時・早稲田大学文学部教授)による要旨訳に英文(Mysticism and Logic, 1918, chapt. 10の該当部分)をほんの少しだけ付加したものです。
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さて、常識的に物とよばれるものは現実の感覚与件と可能な感覚与件(注:たとえば、火星に今人間はいないが、火星にいって経験することは感覚与件になる可能性があるので、「可能な感覚与件」になる)の集まりである。通常、物とその現れは異なるとみなされ、前者を物的とすれば、それと異なる後者は心的と考えられるが、ラッセルの場合、感覚与件は本来物的だからそのような区別は当らない(注:1912年の時の考え)。それよりも後者が単に主観的、私的であるということが問題になる。そこで、私的な空間から公的な空間を論理的に構成するという議論が展開されるにいたる。つまり、ラッセルは 感覚与件そのものが何であるかという点には関心を抱かず、彼にとって感覚与件はいわば自明の与件であり、 外界へ推論を進めて行く確実な手がかりなのである。
やがて「心の分析(the Analysis of Mind, 1921)」を著すにいたって、ラッセルは感覚与件を物的、感覚を心的とする区別を改め 中性一元論を唱えるにいたるが、その際中性的素材として選ばれる感覚である。(遠藤氏は最後にこのように書いているが、最初にもっと明確に書いておかないと、誤読する人が多そう。)
(When I see a colour or hear a noise, I have direct acquaintance with the colour or the noise. The sense-datum with which I am acquainted in these cases is generally, if not always, complex. This is particularly obvious in the case of sight. I do not mean, of course, merely that the supposed physical object is complex, but that the direct sensible object is complex and contains parts with spatial relations. ...