[児童図書] 塩谷太郎(著)『バートランド・ラッセル』(潮出版社,1971年7月刊行。92 pp. 15cm. ポケット偉人伝第7巻)
* 「平和に変革に情熱を注いだ哲学・思想家」5分冊のなかの1冊)* pp.4-82:本文/pp.83-92:ラッセル略年譜
* 塩谷太郎(しおや・たろう:1903~1996):東京外国語学校ドイツ語部卒。日本児童文学家協会、日本児童文芸家協会所属/独、英、米の児童文学の翻訳・紹介にあたり、訳書に『アルプスの少女ハイジ』『たから島』などがある。
*以前掲載した紹介
* 本書は小学生を対象にした児童図書と思われる。
* 大蔵宏之(作)「水爆戦争に勝利はない-心からの平和主義者ラッセル」
ラッセル家の家系
一八七二年五月の夕方。ウェールズ(イギリスの一地方)のワイ川のほとりにあるトレレックのアンバーレー・ラッセル子爵(ししゃく)の屋敷(やしき)は、喜びに包まれていた。三人目の子どもが生まれたのである。まるまると太った、元気な男の子だった。「まあ、なんて利口(りこう)そうな赤ちゃんでしょう。」召使い(めしつかい)や看護婦(かんごふ)たちは口ぐちに語りあっていた。 そのことばをお産(さん)のベッドにいるアンバーレー夫人のケイトは、にこやかに聞いていた。出産後三日目、かたわらの小さなベッドに寝ている赤ん坊を見てケイト夫人はびっくりした。生まれてからまだ三日しかたっていない赤子が、しっかりと目を開いて、まるでなにもかも見ているぞというように、じっとあたりを見つめていたのだ。この子は、もしかしたら、みんながいうように、立派な仕事をする大人物になるかもしれないわ、とケイトは思った。
「きっといまに、大きな仕事をなさる、立派(りっぱ)なお方におなりになさるにちがいありませんよ。」
「そうだ、このことは、はっきり書きのこしておかなくては。」(松下注:以上は、『ラッセル自叙伝』に引用されている母の日記をもとに塩谷氏が創作したもの)赤ん坊はバートランドと名づけられた。のちに学者として、また偉大な平和運動家として全世界の人びとから尊敬されるようになったバートランド・ラッセルはこうして生まれたのだった。
バートランドには兄と姉がいた。三人の子どもたちは、やさしい母と、それから、貴族でありながら徹底した自由主義者で進歩的な思想の持ち主だった父のひ護のもとに、幸福になんの苦労もなく成長するはずであった。
ラッセル家はイギリスの貴族の中でも名門ちゅうの名門だった。父のアンバーレーは国会議員に選ばれたことがあるが、その父(バートランドの祖父)ジョン・ラッセル伯爵は、イギリスの政治史上もっとも有能な政治家の一人で、長い政治生活をつうじて、二度も首相に選ばれ、デモクラシーへの道を開いた人だった。その業績をたたえて、ヴィクトリア女王はロンドン郊外のリッチモンド・パークにある、ペンブローク・ロッジの屋敷を与えたほどであった。
こういうめぐまれた家庭に生まれたバートランドに、最初の不幸の波が襲ったのは、彼が二歳のときだった。兄のフランクがかかったジフテリアに、母と姉のレイチェルが感染し、さいわい、フランクはいちはやく近くの農家にあずけられたので助かったが、母と姉は相ついで世を去った。不幸はそれだけでは終わらなかった。母と姉が死んでから十八か月で、父のアンバーレー子爵も、病気でなくなったのだ。
死がいよいよ迫ったとき、医師は幼い子どもたちを連れて、子爵の前へいった。夫人がなくなってから、子爵は母のない二人の子どもたちがあわれでならなかった。いま、父である自分も死のうとしている。母を失い、いままた父とも永遠の別れを告げなければならないこの子たちの行く末は、どうなるのだろうか。
「わたしは自分の思想、信念にしたがって悔いのない人生を過ごしてきた。人びとは自分を急造主義者、異端者と呼び、神を恐れぬ自由主義者、無神論者とののしったが、わたしはそれにたいして敢然と闘ってきた。三十三という若さで死ぬのは残念だ。しかしわたしはいいたいことをいい、主張すべきことを主張してきた。だから、そういう点ではもう思い残すことはない。だがこの子たちは・・・。」彼は医師のさし出すバートランドのほおにやさしくキスした。なにも知らずにたわむれかかる、無心の幼子に、子爵は無量の思いにかられた。どうかすこやかに育つように、たとえ両親はいなくても、ぶじにすくすくと育ってくれるように――。
「さようなら、かわいい坊や。」これが、アンバーレー子爵がバートランドに与えた最後のことばだった。そして彼は静かに目をとじた。
葬儀がすむと、さっそく遺言状が開かれた。二人の遺児についての子爵の希望にたいして、一族の人々から、さまざまな意見が出された。しかし、無神論者を後見人とするなどとは、もってのほかだという点では、だれの考えも一致してしていた。
「なくなった子爵は自由主義者だった。それも極端な自由主義者だ。新しい思想にかぶれ、貴族という身分も忘れて、婦人参政権を主張するばかりか、産児制限といういまわしい考えまでも支持した。彼が二度目の選挙にやぶれて、国会の議席を失ったのも、そのためだ。」こうして、子爵の願いもむなしく、二人の遺児は、祖父のジョン・ラッセルの屋敷に引きとられることになった。
考える少年
ペンブローク・ロッジの祖父の屋敷(右写真)は大きくて、立派だった。もう八十を越した祖父は、この屋敷で悠々自適の日を送っていた。ジョン・ラッセルはすでに第一線はしりぞいていたが、イギリス政界にたいする彼の力はまだ失われていなかった。内閣の会合がここで開かれることもあったし、政界の大立て物、貴族、外国の使臣などがこの屋敷を訪れることもあった。あるときペルシャ王がここを訪問した。「このような手狭な屋敷においでくださいまして、まことに光栄に存じます。」と、年老いた大政治家はいった。
「ここは広いとはいえませんが、訪ねてくるのは、みんな偉大な人ばかりなのでしょう。」と、ペルシャ国王は笑いながら答えた。たしかに、王宮にくらべたら、ここは小さな屋敷にすぎなかったろう。ジョン・ラッセルは公の席ではひどく厳格で、だれもがおそれるほどだったが、家族の者にはとてもやさしかった。とりわけ、幼いバートランドにたいしては、やさしいおじいさんだった。
バートランドは父や母と同様に、この祖父のことをほとんど覚えていない。というのは、この祖父も、バートランドがここに引きとられてから二年後(一八七八年)には、死んでしまったからである。祖父がどんなにすぐれた政治家だったかを知ったのは、それから十年あまりもたってからだったし、父が自分たちのために書き残した遺言状のことを知ったのは、二十歳を越してからだった。そのときはじめてバートランドは、自分の父がどんな人だったかを知ったのだった。
そのころのバートランドは、肉体的にも、精神的にも、荒波にもまれる小舟のように大きゆく揺れ動いていた。あらゆることにたいする疑問がつぎつぎとわきあがり、それを解こうと苦しみ悩んでいたのだ。真理とはなにか、神とはなにか、絶対者とはなにか、政治はどうあるべきか、社会はどう進まねばならないか、恋愛の正しい姿はどうあらねばならないか。
はじめて父の志を知ったバートランドは、父の中に、自分の理解者を発見したように思った。
「いまのぼくの苦しみや悩みは、かつておとうさんが感じたものと同じなのだ。」若くして死んだ父の、神を捨て、因習や偏見にしがみついている貴族階級に反抗した姿が、目の前に見えるような気がした。
祖父がなくなってからも、幼いバートランドの生活には、なにも変わったところはなかった。この屋敷には祖母のほかに、おじのロロやおばのアガサがいて、死んだ祖父と同じようにバートランドをかわいがってくれたからだ。しかしたとえ兄のフランクはいたとしても、おとなばかりのこの屋敷は、まだ六歳のバートランドには、なんとなくものたりなかった。町の子どもたちとちがって、バートランドには友だちというものがなかった。女王からたまわったこの屋敷では、かりに友だちがいたとしても、そう気軽に遊びにくるわけにはいかなかったにちがいない。
祖母のレディ・ラッセル(写真)は、男まさりのしっかりした清教徒だった。明るいほがらかな気質の人だったが、日常生活は自分にも家族の者にもきびしかった。バートランドは毎日七時半から八時まで、どんな寒い冬の朝でも、火の気のない部屋で、ピアノの練習をさせられた。八時には家族全員のお祈りが行われた。食事は質素なもので、子どもにはおいしいものは許されなかった。子どもにとって、おいしいものはぜいたくであり、あとあとのためにならないというのである。冷水浴も欠かすことのできない日課だった。しかし祖母は自分自身に対してもきびしかった。もうかなりの年だったのに、昼間は絶対にひじかけいすにすわらなかった。祖母は子どもたちのしつけにはきびしかったが、それ以外にはむずかしいことをバートランドに教えこもうとはしなかった。彼女は祖父のジョンにもまして進歩的な考えの持ち主だった。彼女は自由主義者であり、議会主義者であった。イギリスの帝国主義的な外交方針には徹底して反対していた。彼女は、ここを訪れる政界、官界のおえら方にとっても、ときには、ジョン・ラッセル以上にこわい人であった。あまりむずかしい話はしなかったが、おりにふれて、政治や社会の動きについて、わかりやすく子どもたちに話して聞かせることがあった。
「一人の人が自分の考えをみんなにおしつけるということは、いけないことなんだよ。それを防ぐためには、議会政治というものが必要なんだよ。みんなして自分たちのかわりになる人を選び、その人たちが議会へ集まって、みんなのためになるような政治をする。・・・でも世界にはまだ議会をもたない国がたくさんあるんだよ。たとえばロシア・・・。」そして、笑いながらいうのだった。
「だいぶ前のことだがね、ロシアの大使がここへきたとき、わたしはこういってやったのだよ。ロシアにだって、いつかは議会ができますよ。』すると大使はいったよ。
「いいえ、奥さま。そんなことはけっしてありません。」って。祖母の話は、当時のバートランドには、正しく理解できなかったが、彼女のいおうとしていることは、幼い彼にもなんとなくわかるような気がした。
「大使には世界の動きがわからなかったんだよ。かわいそうなことだよ、大使にとっても、ロシアの国民にとっても。」
おじのロロは内気で控え目な人だったが、バートランドにとっては、いい先生だった。
「おじちゃん、鳥はどうして飛ぶの?」バートランドの疑問はつぎからつぎへと続けられる。あるとき、バートランドは聞いた。
「羽があるからさ」
「どうして羽があると飛べるの?」
「地球って丸いの?」あくる日、ロロはおやと思った。バートランドが大きなシャベルをふりまわして、庭を掘っていたからだ。
「そうだよ、ボールみたいに。その上にいろんな国があるんだよ。イギリスの反対側にはオーストラリアって国があるんだ。」
「なにをしてるんだね、坊やo」ロロはあきれたが、バートランドはそういう子だった。好奇心が強くて、おまけになんでも自分で試してみなければ気がすまないという性質だったのだ。
「きのうおじちゃんがいったこと、試してみるんだよ。ぼんとうにイギリスの反対側にオーストラリアって国があるかどうか。」
公理の証明は?
兄のフランクはバートランドより七つ年上だった。二人は年もちがううえに、性質もちがっていた。おおまかにいって、フランクは明るくて行動的だったのに対し、バートランドは内向的で考えることの好きな少年だった。そんなわけで、二人はいっしょに遊ぶこともあまりなかった。バートランドは、町の子どもたちが行くような学校へは行かないで、家庭教師について勉強していた。彼はのちに立派な数学者になって、多くのすぐれた仕事を残したが、子どものころの彼は、数学はけっして得意なほうではなかった。掛け算表が覚えられなくて、泣きたくなったこともあった。十一歳のある日、フランクがいった。
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「バーティー(バートランドのこと)――幾何って知ってるかい。とてもおもしろいんだよ。」フランクはバートランドを自分の部屋へ連れて行って、ユークリッド幾何学の教科書をひろげ、まず定義の説明から始めた。バートランドは熱心に聞いていた。
「にいさん、知ってるの?」
「知ってるとも。教えてあげようか。」
「うん、教えて。」
「わかったかい、バーティ?」つぎは公理だった。
「わかったよ。」
「幾何っていうのは、いろんなことを証明する学問なんだけど、それには公理が必要なんだよ。それを使って証明するんだよ。」バートランドは納得できなかった。証明もしないで公理なんてものを決めるなんて。それじゃ、ほかの証明だって、あやふやになるじゃないか。バートランドがあまりいつまでも公理にこだわっているので、とうとうフランクは腹をたてた。
「じゃあ、公理の証明はなにを使ってするの?」
「公理は証明しないでもいいんだよ。」
「どうして? わかんないなあ。」
「でもそういうことに決まってるんだよ。」
「おかしいなあ。」
「おかしくっても、そう決まってるんだよ。だから、これだけはそのまま覚えておかなければいけないんだよ。」
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「それでいやなら、幾何の勉強はできないよ。」フランクは乱暴にパタンと本をとじた。バートランドはあわてた。
「だって・・・。」
「だってもくそもあるもんか。これで勉強はおしまいだ。」
「わかったよ、にいさん。公理はそのままおぼえるから、先へ進んで。」フランクはきげんをなおして、また本を広げた。こうしてバートランドははじめて幾何というものを学んだが、このことがひっかかって、彼の心はすっきりしなかった。
「ほんとだね?」
「ほんとだよ。」
どんな小さなことでも、きちんと証明しなければならないこの学問の中に、証明しないでもいい公理というものがある。これはどういうことなのだろう。しかし、それはとにかく、勉強が進むにつれ、いろんなむずかしい問題が、もつれた糸を解きほぐすように、きれいに解けていくのは楽しかった。それがおもしろくて、バートランドは熱心に幾何の勉強をした。
哲学への歩み
少年は成長する。考える少年は、考えない少年よりいっそうめざましく成長する。バートランドがそうだった。十二歳になったとき、祖母はバートランドに一冊の聖書を与えた。「お誕生日おめでとう。」祖母はやさしくキスして続けた。
「この聖書にだいじなことばを書いておいたから、忘れずにおぼえておくんだよ。」バートランドは、聖書を開いてみた。本のとびらのところに、こう書いてあった。
「ありがとう、おばあさん。」
「大衆といっしょになって、悪を行なってはいけない。」バートランドはだまってこの文字を見つめていた。祖母はその頭をなでて、
「いいかい、バーティ。大衆というものは、大きな力をもっている。でもときどき大きなまちがいをおかすことがある。大勢の人がまちがったことをするときが、いちばん恐ろしいんだよ。世の中がめちゃめちゃになってしまうからね。だからみんなを指導する者は、いつもみんなを正しい方向へ導いていかなければいけないんだよ。」バートランドはすなおにうなずいた。
「おばあさんがいうのは、ぼくも大きくなって人を導くような立ち場になったら、どんなに大勢の人がすることでも、まちがっていると思うことは、させてはいけないってことなんだね。」と、祖母は満足そうにいって、
「そう。」
「おまえは考え深くて利口な子だね。そのことばを忘れるんではないよ。そして自分が正しいど思うことは、たとえ一人ぼっちになっても、恐れずにやりとげるんだよ。これは、昔からラッセル家の者たちがやってきたことで、いわば、この家の家訓のようなものなんだよ。」このころから、バートランドはますます、ものごとを深くつきつめて考えるようになった。
「わかったよ、おばあさん。」
「よしよし。この聖書はいつまでもだいじに持っているんだよ。」
「はい、おばあさん。」
もう一人でいても、さびしくなかった。考えるということが、どんなにすばらしいことか、バートランドは考えることの喜びを知ったのだ。しかしそれと同時に、苦しみも知ったのだった。
十六歳になったころ、彼は、ほんとうに信じられるのは、自分の存在だけで、自分以外のものはすべて夢にすぎないのではないか、と思うようになった。バートランドの哲学への歩みは、こういう疑問と、それにたいする彼なりの答えから始められた。数学さえも疑った彼は、宗教の教義にたいしても、深い疑いをもつようになった。宗教の教義には、幾何の公理と同じように、人を納得させるだけの論理がないと思った。それは証明することのできない仮定であるとも思った。彼は宗教そのものまで疑うようになった。
彼の父は無神論者だった。しかし、彼が育ったのは、信心深い祖母の家だった。毎朝かならずお祈りをし、毎週かならず教会へ行った。宗教はいつも彼の身のまわりにあった。教義には疑いをもったが、神は信じなければならない。神を信じるには、教義の立証よりも、宗教的信念をもたなければならない。バートランドはそう思った。でもどうすれば、その信念をもつことができるだろう。どうすれば神を信じることができるだろう。祖母の実家は信心深い家柄だった。彼は宗教にたいしてもち始めた疑問を祖母にうちあけて、教えをこおうかと思うことがあった。しかしだまって一人で考え続けた。祖母はなにごとによらずきびしい人だった。もし、自分が宗教にたいして疑いをもっていると知ったら、きっと驚くと同時に、腹をたてることだろう。そして、自分には納得できない教義のかずかずをならべたてて、自分を責めることだろう。そう思うと、バートランドはとても祖母に聞く気にはなれず、自分なりのやり方で解決しなければならなかった。
彼は聖書を読み、宗教書を開いて、ひとつひとつの教義について、いっしょうけんめい考えた。そしてその考えの結果を、たんねんにノートにしるした。こうしてバートランドは少年期から青年期へと移っていったのであった。
ケンブリッジ大学時代
一八九〇年十月、バートランドはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。十八歳のときである。トリニティ・カレッジはケンブリッジ大学の中でも古い歴史をもった有名な学校で、多くの英才を送りだしていた。バートランドの育った家庭は進歩的とはいっても、やっぱり貴族的雰囲気につつまれていた。そして、祖父のジョンがなくなってからは、清教徒的なきびしさをもった祖母が、とりしきっていた。そのためバートランドは町の少年たちのように思いきってさわぐことも、遊ぶこともできず、ひどく内気な少年になってしまっていた。大学へはいってからも、その性質はなかなか抜けなかった。そのいい例にこんなことがある。大学の入試を受けに行ったときのことだ。彼は何日間かを大学の寮にはいって生活した。ある日彼は便所へ行きたくなった。ところがはじめての寮なので、どこに便所があるのかわからなかった。
「便所はどこですか。」と、聞けば、すぐにわかることだった。ところが、内気なバートランドは、どうしてもそう聞く気にはなれなかった。そこで、てくてく駅まで歩いて行って、駅の便所で用をすませたというのだ。
大学へはいってからもしばらくは一人ぼっちだった。しかし、若さは、きびしい家庭から解放された彼を、しだいに新しい生活にとけこませていった。友だちもできた。彼はよくしゃべるようになり、議論好きになった。これは彼にとって新しい経験だった。相手によって議論ははてしなく広がり、一人で考えているときとはまるでちがった世界に彼をひき入れた。ただ彼の場合、その世界は、ほかの多くの学生たちのように空想の世界ではなく、あくまでも、論理の世界、絶対に確実なものを求める真理の世界だった。
彼はここでたくさんのすぐれた友人を得たが、アルフレッド・ホワイトヘッドもその一人だった。彼はバートランドより十一も年上で、彼が入学したときは、もう特別研究員になって、学生たちを指導する立ち場にあった。ホワイトヘッドは、バートランドのすばらしい才能を見ぬき、とくべつ目をかけて、彼を指導したのだった。
そのころバートランドには、一人の女友だちがいた。大学にはいる前に年知り合ったアリス・スミスという、五つばかり年上の女性で、アメリカの女子大学生だった。彼女の両親は、アメリカ人だったが、イギリスヘ移住したので、彼女は夏休みを利用して、両親に会いにきていたのだった。そのころバートランドは、まだきびしい祖母のもとで孤独な生活を送っていた。はじめてアリスに会ったとき、彼は一目で彼女が好きになった。友だちがなかったせいもあったろうが、それにもまして、彼女はすばらしい女性だったからだ。それまでバートランドは、心を開いて話し合える女友だちをもったことがなかった。内気で無口ではにかみやだった彼にとって、女友だちと気楽に話し合うなどということは、まるで夢みたいな話だった。アリスは、そういうバートランドの心のかぎを開かせる、ふしぎな魅力と、アメリカ人らしい明るさをもった女性だった。
そのころバートランドは、アメリカの詩人ホイットマンに傾倒して、その詩集を読みふけっていた。二人はよくホイットマンの詩について、話し合った。
「彼はすばらしい詩人です。」彼は目を輝かしていった。
「大衆のために大衆の心をうたっています。彼がうたうのは、散りかかった美しい花ではなく、たくましく生きていく草の葉です。彼こそ、若いアメリカにふさわしい詩人です。」アリスはいかにも満足そうにいった。
「わたしホイットマンさんによく会いますの。」こうして二人の心はいっそう通いあった。二人はよく連れだって、野原や林を散歩した。
「ほんとうですか。」
「ええ。わたしもあの人の詩は大好きですし、心から尊敬していますわ。あの人は、ほんとうの大衆詩人です。それに、立派な民主主義者ですわ。」
彼らはすっかりうちとけて、おたがいの悩みや疑問についても話し合った。クェーカー教徒のアリスは、しっかりした信仰をもっていた。バートランドはそういうアリスを見て、うらやましく感じることさえあった。あるとき、彼は聞いた。
「アリス、きみは恋愛についてどう考える?」とアリスはいって、
「ほんとうの恋愛だったら、美しいと思うわ。」
「二人が心から理解しあっているんだったら、どんな恋愛だって祝福されていいと思うわ。」と、バートランドは思わず叫んだ。
「たとえ親やまわりの者たちが反対しても?」
「そうよ。恋愛は個人の自由ですもの。」
「そうだとも!」
「でも、それができるのはわたしたちの国よ。ここではむりだわ。まだまだいままでの因習にしばられていますもの。とりわけ貴族たちの家庭では。貴族のおぼっちゃんのあなたにこんなことをいうのはわるいけど。」と、アリスは笑いながらいった。
「たしかにそうだけど、ぼくはちがうよ。」バートランドはむきになっていった。
「どうちがうの?」と、バートランドはしっかりとアリスを見ながらいった。
「ぼくはいまにきっとほんとうの恋愛をしてみせるよ、理解と愛で結ばれた。そのためなら、どんな反対にも負けはしないよ。」
「できるかしら?」
「できるとも。」
二人は、なんでもうちとけて話し合う仲だったが、まだ友だちにすぎなかったのだ。しかしバートランドがケンブリッジに入学して、祖母のもとを離れたとき、この関係は大きく変わったのだった。
ケンブリッジ大学は、十二世紀ごろに創立され、オックスフォード大学とならんで、イギリスではもっとも古い大学で、その中にはいくつかのカレッジがあり、バートランドがはいったトリニティ・カレッジもその一つだった。こういう古い伝統をもった名門校だけに、たくさんの優秀な学生が、全国から集まっていた。
バートランドは祖母の屋敷を出て、学寮にはいると、熱心に勉強に励んだ。アリスとの交際は大学にはいってからも続けられ、いつまでも二人はおたがいに愛し合うよになっていた。勉強と恋愛。バートランドはこの二つの道をまっしぐらに進んでいった。
一八九四年、大学を卒業すると、祖母にアリスのことを話して、結婚の許しを求めた。進歩的な婦人といっても、祖母は伝統を重んじるイギリスの貴族階級の中で暮らしてきた人だった。承知するわけはなかった。
「なんですって。おまえは由緒あるラッセル家の一員ですよ。こともあろうに、アメリカ人の平民の娘と結婚するなんて!」
「国籍や身分なんか問題じゃありません。」
と、バートランドは必死になっていった。
「おたがいの理解と愛情こそ、結婚の第一条件ですよ。」いったんこうと思いこんだら、どんなことがあってもやりとげる、そういう性質はラッセル家伝来のものだった。祖母は夫のジョンや、バートランドの父のことを思い出した。そしてこの子も祖父や父親にそっくりだと思った。
「おまえはまだ若い。そんなことは、もっと人生を経験してからいうべきことですよ。」
「いいえ、ぼくはおばあさんがなんといわれても、アリスと結婚しますよ。」
この話はたちまち親戚じゅうにひろがって、たいへんなさわぎになった。
「バートランドの行為は一族の体面をけがすものだ。」彼らは、なんとかしてバートランドの決心を思いとまらせようと相談した。
「ぜったいにそんな結婚を許してはならない。」
「あの子はイギリスにおいといてはだめだ。このままではアリスと結婚してしまうだろう。」こうしてバートランドはパリのイギリス大使館に勤めさせられることになった。政界の大立て物として大きな力をもっていたジョン・ラッセル伯の孫である。バートランドをパリの大使館にはめこむくらいぞうさないことだった。こうしてバートランドはパリヘやってきたが、外交官の仕事は、少しも楽しいものではなかった。彼はかたときもアリスのことが忘れられず、早くイギリスヘ帰って、アリスと結婚したいと、そればかり考えていた。
「外国にやってしまうのがいい。そのうちにはおたがいに熱がさめて、ばかげた結婚は思いとまるだろう。」
三か月たった。とうとう彼は口実をもうけて、イギリスヘ帰り、その年の十二月十三日、ロンドンの教会でアリスと結婚式をあげた。バートランドは二十二歳、アリスは二十七歳だった。
ケンブリッジでの彼は、数学を専攻したが、学生生活も終わりに近づいたころ、数学にたいする興味を失って、数学書を全部焼きすててしまった。それからはもっぱら哲学の勉強に励んだ。
ケンブリッジを卒業したバートランドの前には、また新しい学問の世界がひらけた。こんどは、政治や経済や社会思想に興味をもつようになったのだ。
アリスと結婚してからバートランドは幸福だった。毎日がみち足りた楽しいものになった。といっても、そういう生活によいしれていたわけではない。社会思想の勉強を始めたバートランドは、その結果としてとうぜん社会主義の研究に足を踏み込んでいった。それには、アリス夫人の影響も大きかった。彼女はもともと進歩的な考えをもった女性で、だからこそバートランドの心をつかんだのだが、結婚前から婦人参政権運動や禁酒運動などに、はでな活動を続けていた。それは結婚してからも変わらなかった。そればかりか、彼女の兄のローガンは社会主義的な思想をもった作家で『フェビアン協会』(一八八四年に創設されたイギリスの社会主義団体)に関係していた。それでバートランドもしぜんとこの協会の人びとと交わるようになった。こうして社会主義の勉強に励んでいるうちに、バートランドの血の中に流れていたラッセル家伝来の反逆精神は、しだいにつちかわれていったのである。
数学書の著述
アリスと結婚した翌年、彼は彼女にいった。「アリス、ドイツに行ってみないか?」と、アリスはいった。
「遊びにですか。それとも研究?」
「もちろん研究さ。」
「マルクス主義の勉強でしょう。」
カール・マルクスの資本論はもうイギリスにも紹介されていた。『フェビアン協会』の会合でも、よく話題にのぼるのは、マルクスやエンゲルスの思想だった。それは、まだだれもとなえたことのない、新しい科学的社会主義だった。バートランドは、マルクスの説を知るにつけ、それを生んだドイツの現状や、それにたいするドイツの社会主義者や思想家たちの考え方を、知りたいと思ったのだった。一八九五年、彼はアリス夫人をともなって二度ドイツをたずねた。そして帰国すると、翌年、その研究の成果をまとめて『ドイツ社会民主主義』という本を出した。彼が出版したはじめての本である。
この年バートランドはアリスとともにアメリカをたずね、数か月滞在した。二人は、アリスの母校ブリン・マー大学で講演をしたり、アリスと親しかった詩人のウォルト・ホイットマンを訪問したりして楽しい旅を続けた。こうして二人はイギリスヘ帰ってくると、サセックス州にある静かな別荘にひきこもって、散歩と思索の日々を過ごしたのだった。
バートランドはひじょうに健康で、四十九歳のとき中国で急性肺炎にかかるまでは、病気らしい病気をしたこともなく、九十八歳の長寿を保ったが、彼の性格はいたってきちょうめんで、日常生活も規則正しく、けっしてはめをはずすようなことはしなかった。それが彼を百歳近くまで長生きさせたのかもしれない。
祖母の屋敷では禁酒禁煙だった。来客などでどうしても酒を出さなければならないときには果実酒を出したが、それ以外はアルコールのにおいをかぐこともなかった。これは老夫人の命令だったのである。大学にはいってからも、バートランドは酒を飲まなかった。祖母のしつけもあったが、それ以上に、酒は健康によくないと考えていたからだった。しかし、タバコはよく吸った。たいへんなタバコ好きで、いつもパイプをはなしたことがなかった。
彼は自分がその中で生まれ、その中で育ったにもかかわらず、貴族というものに強い反感をもっていた。しかし、彼の中には、貴族的なものがいっぱいしみついていた。身だしなみのよさも、その例だったろう。彼のハイ・カラー(高いカラー)は友人たちのあいだでよく知れていた。まっ白なハイ・カラーをつけ、パイプをくゆらしながら読書したり、散歩したりしているバートランドの姿は、いかにも上品で、貴族的であった。(写真:1910年のラッセル)
一八九九年、二十七歳になったバートランドは、母校のケンブリッジ大学に招かれて、ライプニッツの哲学について講義することになった。ライプニッツはドイツの有名な哲学者、数学者で、ドイツ近世哲学の始祖といわれる人である。このときの研究をもとに、翌年彼は『ライプニッツの哲学』という本を現わしたが、これはその後の彼の仕事に大きく役だったのだった。
一九〇〇年七月、パリで国際哲学者会議が開かれた。バートランドも出席して、ここでイタリアの数学者で論理学者のペアーノ(一八五八年~一九三二年)と知り合った。これは大きな収穫だった。彼はペアーノから多くの教示を得て、かねてから考えていた『数学の原理』の著述にとりかかったのだった。しかしなまやさしい仕事ではなかった。仕事が進むにしたがって、いろんな疑問が生じて、彼を苦しめた。それで上下二巻になるはずのこの本は、とうとう上巻だけで中止されてしまった。しかしぜんぜん中止したわけではなかった。その後、ケンブリッジ時代に知り合ったホワイトヘッドの協力をえて、新しく『数学原理』(『数学の原理』と別の本)の著述にとりかかり、およそ十年後に『数学原理』全三巻を完成させたのだった。
戦雲たちこめる中で
一九〇二年にバートランドははじめてH.G.ウェルズ(一八六六年~一九四六年、イギリスの作家・文明批評家で、大著『世界史大系』をあらわした)に会った。それはフェビアン協会の指導者シドニー・ウェッブがつくった『協力者の会』の小さな懇談会の席で、ウェルズも招かれてきていたのだった。その少し前、ウェッブはバートランドにいった。「こんど、ある男を会に入れようと思うんだが、なかなか才能のある男だよ。」と、バートランドはいったが、そのころ彼は『協力者の会』の人びとに、少しばかり失望していたのだった。この会には進歩的な人もいたが、保守的な政治家や軍人もかなりはいっていた。彼らはほとんどが帝国主義者で、ドイツとのあいだに戦争が起こるのをのぞんでいた。
「なんという男だい。」
「ウェルズというんだ。きっときみのいい話相手になると思うよ。」
「そりゃ楽しみだな。」
ウェッブはウェルズについて、こんなことをいった。
「彼は、ジュール・ヴェルヌ(一八二八年~一九〇五年、フランスの作家)ふうの物語を書いている作家だが、それで満足しているわけじゃない。いまにきっと、もっとすばらしい仕事をする男だよ。」たしかにウェルズは、ウェッブのいうように、ただの男ではなかった。しかしなによりもバートランドを喜ばせたのは、帝国主義には反対で、戦争をのぞんでいる連中にはまっこうから反対していたことだった。二人はよく戦争推進論者たちを相手に、激しい議論をたたかわせることがあった。そんなことから、バートランドはウェルズとすっかり親しくなり、ときおりウェルズ夫妻を、自分の家に招待したりした。
『協力者の会』にはいってから、バートランドは政治にいっそう強い関心をもつようになった。保守主義者や帝国主義者を知るにつけ、こんな連中に政治や外交をまかせておいたら、たいへんなことになる、と思った。彼らはいつかドイツと戦争を始め、ひいて全世界を戦火の中にひきこむにちがいないと思った。
恋愛問題についても、バートランドとウェルズはほとんんど同じ考えで、どちらも恋愛の自由をとなえていた。ところが、ウェルズは『慧星時代』という本で、恋愛の自由を讃美したために、新聞でこっぴどくたたかれた。ウェルズはしょんぼりしていった。
「えらいことになったよ。」バートランドはウェルズをなぐさめていった。
「きみは信じることをいったのだから、そうがっかりすることはないだろう。」と、ウェルズはうかない顔をしていった。
「そうかもしんないが。」
「ぼくはまだ利息で生活するほど金はもっていない。もっと書いて生活費をかせがなくちゃならないんだ。だから、いま新聞でたたかれるのは、こまるんだよ。」と、バートランドは、ウェルズのにえきらない態度に、少し腹をたてて聞いた。
「では、どうするんだね。」
「しかたない。あの本に書いた自由恋愛のことはとり消すつもりだよ。」ウェルズのこのひとことで、バートランドはすっかり不愉快になった。そしてそれ以来、ウェルズとはあまり行ききしなくなった。彼らが以前のような友情をとりもどしたのは、第一次世界大戦が終わってからだった。こうしているうちに、バートランドの心の中には、ラッセル家伝来の政治家的情熱がもえあがってきた。
一九〇七年、ロンドンのウィンブルドン選挙区で、下院議員補欠選挙が行なわれることになった。保守党からは党の大物ヘンリー・チャップリンが立候補した。バートランドは自由党の後援を受けて立候補した(右写真参照)。政治的にはまったく無名の新人である。しかし彼は敢然とこの大物に闘いをいどんだ。選挙の結果は、バートランドの完全な負けだった。しかし彼は、いっこうに気にもとめずに、ふたたび学問の世界にもどった。だが政治にたいする野心をすっかりすてたわけではなかった。彼はそのあとの選挙でも自由党から立候補しようとしたが、党は彼を公認にするのをためらった。というのは、彼は自由恋愛主義者で、おまけに、教会にも行かない無神論者だったからだ。あれほど信心深い祖母のもとで育てられながら、彼は、神を信じる気持ちにはなれなかった。
ケンブリッジヘ入学する前の年、彼はこんな意味のことを書いている。
一九一〇年、バートランドは母校トリニティ・カレッジから招かれて、そこの講師になった。もうだいぶ前から、アリス夫人との仲は、だんだんまずくなってきていた。原因はいろいろあった。まずあげられるのは、性格のちがいだった。それから、彼女がひじょうなやきもちやきだったこと、自分たちの子どもをほしがらなかったこと、極端なキリスト教信者だったことなどだ。
アリスが禁酒運動や婦人参政権運動で、家を外にあっちこっちとびまわっていたことも、夫婦のあいだを冷たいものにした。またバートランドはいなかで暮らしたがっていたのに、アリスはいつもそれに反対した。そのために口論になることもいくどかあった。こうなると、おたがいに相手の欠点がいよいよ鼻についてきた。
もちろん、いろんな点でアリスは立派な女性だと、バートランドは思っていた。なんとかして、またもとのように愛し合い、いたわりあう夫婦になれないものかと考えた。しかし、どうしてもむりだと知ったとき、彼はいった。
「アリス、ぼくはきみを尊敬し、理解しているつもりだ。でも、愛することはできなくなってしまった。ぼくたちは別れたほうがいいと思うよ。承知してくれるね。」二人はいろいろ話し合った。しかし、そのころのイギリスの法律では、離婚には、いろいろむずかしい法律上の手続きが必要だった。結局二人は別居生活をし、おりを見て、正式の離婚をすることにきめた。こうして一九一一年、彼らは別れた(松下注:法律上の離婚ではなく、別居)。
二人の離婚が正式に認められたのは、それから十年後の一九二一年だった。それもバートランドが中国を講演旅行中、病死したというまちがった報道がイギリスに伝わったからだった。
アリスと別れてからも、彼女にたいするバートランドの友情は深く、厚かった。会うことはなかったが、いつもアリスのことを気にかけ、彼女の運動がうまくいくようにと、かげながら声援を惜しまなかった。二人が離婚後はじめて会ったのは、アリスが死ぬ前年の一九五〇年だった。二人はおたがいに尊敬する友人として、かたい握手を交わした。
バートランドが精魂をかたむけてあらわした『数学原理』の第三巻が刊行された翌年の一九一四年、恐れていた戦争が起こった。第一次世界大戦である。セルビアの一青年がはなった一発の銃声がまきおこした戦雲は、その年の七月には全ヨーロッパをおおい、イギリスも宣戦布告にふみきった。バートランドの心の中には、絶望とも怒りともつかぬ動揺が起こった。戦争とは人類に不幸をもたらし、悲しみを与えるだけのものだ。勝っても負けても、国土は荒らされ、家は焼かれ、無数の人びとが犠牲になって死んでいく。
彼はいままでずっと愛と平和を求めてきた。人間間の理解と信頼の尊さをたたえてきた。しかし戦争は、それらのものをいっぺんにうちくだいて、破壊と殺りくのなかにほおりこんでしまうのだ。バートランドの怒りは激しく燃えあがった。それと同時に、イギリスが宣戦を布告したとき、多くの人びとが、いや、彼の友人たちでさえ、それにたいしてほとんど反対しなかったことに、深い絶望を感じた。『協力者の会』で、彼といっしょにドイツとの戦争に反対していたウェルズまでが、こんなことをいいだしたのだ。
「戦争をやめさせるための戦争、それがこんどの戦争である。わたしは、ドイツの軍国主義に反対するこの戦争を、心から支持する。」と、バートランドは思った。ウェルズまでが戦争熱にうかされている。戦争をやめさせるための戦争・・・なんというこじつけだ。戦争はどんな理由をつけようと、死と破壊のうえになりたつものではないか。国民大衆が為政者の宣伝にのって戦争熱にうかされるのはわかる。しかし、理性や知性を売りものにしてきた知識人までが、なんの反省もなく、戦争を賛美していいものだろうか。
「なんたることだ!」
村も、町も、駅も、広場も、戦争一色に塗りつぶされた。
「祖国を守れ!」これが、いままで平和だった家々が戦場へかりだされていく兵士たちへのはなむけのことばだった。バートランドはこういう情景を見るたびに胸がいたんだ。怒りは恐怖にかわった。
「ドイツを倒せ!」
「恐ろしいことだ」と、彼は思った。
「こんな時代に生まれてこなければよかった。・・・わたしは一九一四年以前に死んでいればよかった。そうすれば、こんな恐ろしい思いはしないですんだのに。」しかし、絶望と恐怖の時がすぎると、彼の胸には、激しい闘志がわきあがった。
「わたしは闘わねばならない!」彼は心の中で叫んだ。
「平和を守るために、闘わねばならない!」神を信じないバートランドは、のちに、このときのことを、「神の声を聞いたように思った。」
といった。
――「戦争とはなんだろう。」
彼は激する心をおさえて考えた。それは一部の人たちの所有欲からひき起こされた悪以外のなにものでもない。悪には立ち向かわなければならない、どんな困難があっても。戦争にたいするバートランドのにくしみは激しかった。それをふせぐためなら、どんな犠牲をはらってもいいと思った。彼は、父のアンバーレー子爵を思い浮かべた。因習にさからい、古めかしい思想に抵抗し続けて死んだ父。ペンブローク・ロッジの屋敷で、男まさりの祖母から誕生日に贈られた聖書に書きこまれてあったことばが、ふと心に浮かんだ。
「『大衆といっしょになって、悪を行なってはいけない。』」と、バートランドは思った。
「そうだ」
どんなに多くの人が戦争に組していても、わたしはそれといっしょになって戦争をしてはいけないのだ。戦雲たちこめる中で、バートランドの反戦運動は活発に始められたのだった。
弾圧、また弾圧
まずバートランドが始めたのは、平和主義者の組織である『徴兵反対同盟』の委員になり、反戦のための宣伝活動を行うことだった。全国民が熱狂して戦争遂行を叫んでいるとき、わずかばかりの平和主義者が反戦と徴兵反対の運動をするのは、大きな覚悟のいることだった。はたして、彼らの上には、迫害と弾圧の手がのびてきた。しかし、同盟の人たちは、バートランドを中心に、それをはねかえして、活動を続けた。彼女は、バートランドが一九一〇年の選挙のとき応援演説をしたことのある自由党員フィリップ・モレルの妻だった。モレル夫人は由緒ある貴族の出だった。しかし思いあがった貴族たちの態度や生活ぶりには、強い反感をもっていた。彼女もまた平和を愛し、戦争をにくんでいた。そして社交界の人びとからは白い目で見られながらも、それを口に出していうだけの勇気をもっていた。そんなわけでバートランドとはよく意見があった。彼女の屋敷には、ときどきアスクイス総理大臣もたずねてきた。バートランドは、相手が総理大臣でも、おくせずに、戦争の罪科や平和の尊さを話して、彼らの運動が正しいことを力説した。運動が激しくなるにつれ、彼らは人びとの反感をかい、友人たちでさえ、だんだん離れていった。しかしバートランドは手をひかなかった。そのためとうとう裁判にかけられる羽目になった。
一九一六年のことだ。アーネスト・エヴァーレットという青年のところに、徴兵令状がきた。エヴァーレットは平和主義者で『徴兵反対同盟』の協力者だった。彼は徴兵命令にしたがわなかった。そのため逮捕されて、軍法会議にかけられ、重労働二年の刑をいいわたされた。『徴兵反対同盟』は、ただちに立ちあがった。彼らは軍法会議の判決に抗議し、エヴァーレットの即時釈放を要求するパンフレットをつくってばらまいた。彼らの激しい活動に手をやいていた軍当局は、パンフレットをくばっていた六人の同盟員を逮捕して、不穏文書配布のかどで、きびしい懲役刑をいいわたした。
「これは、われわれにたいする軍の挑戦だ!」
とバートランドは叫んだ。
「言論の自由にたいする、許すことのできない弾圧だ。国民から考える権利を奪おうとする軍の暴力だ!」しかし、なんといっても戦時下だ。軍の力は絶対だ。しかし、屈してはならないと、バートランドは思った。
「反戦運動は最後まで続けなくてはならない!」たとえわずか六人の同志でも、いま彼らを失うことは同盟にとって大きな痛手だ。彼らはあらゆる困難と闘いながら、わたしたちと運動を続けてきたのだ。彼らを救うのはわたしたちの義務だ! そう考えると、彼はすぐさまペンをとって、つぎのような声明文を書いた。
そしてそれをイギリスの大新聞『ロンドン・タイムズ』に送った。この声明文は、大々的にとりあげられて、大きな反響をまき起こした。若い同志を救おうとして、自分からすすんでその罪をきようとしたバートランドの男らしい行為に、彼とは反対の立ち場にあった者たちまで賞賛を惜しまなかった。しかしこの結果彼は、軍の徴兵を防害をしたという理由で起訴され、ロンドン市長公邸で、裁判にかけられることになった。バートランドはこの裁判の場も、反戦反軍の宣伝に利用した。彼は激しいことばで、戦争の罪悪とおろかしさを叫び、平和の尊さを力説した。裁判の結果、バートランドは百ポンドの罰金刑を課せられただけですんだが、しかしこのときの挑戦的な陳述は、あとあとまで尾をひいた。「問題のパンフレットを書いたのは、わたしである。配布の責任もわたしにある。もしだれかがそれによって罰せられなければならないとするなら、わたしである。 バートランド・ラッセル」
その年の七月、彼はトリニティ・カレッジから、講師の職をとくという通告を受けた。理由は反戦運動にあったことはいうまでもなかった。バートランドにとって、これはかなりのショックだった。しかしすぐに、それから立ちなおると、前にもまして活発な運動を始めた。この運動を始めてから、バートランドは出版の仕事をあきらめていた。とても彼の反戦的論文を出版してくれるところはあるまいと思っていたからだ。ところが、彼を喜ばせる話が出てきた。ある出版社が、もし一冊の本になるだけの論文があったら、出版しようといってきたのだ。バートランドはおどりあがって喜んだ。
「イギリスの平和主義は、まだ死んではいなかったのだ!」こうして彼の『社会再建の原理』は出版されたのだった。しかし、バートランド・ラッセルの名は、イギリスの軍や役所では、やく病神のように嫌われていた。彼らはなんとかして、このやく病神をこまらせてやろうとして、いろんないやがらせをした。
そのころ彼は、アメリカのハーバード大学から講演の依頼を受けた。しかし外務省がなんのかのと理由をつけて、旅券を発行しなかったので、とうとうこの講演はことわらなければならなかった。しかしそんなことで、彼の決心をくじくことはできなかった、彼はこの運動のためなら、財産はもちろん、命まですててもかまわないと思っていたのだ。
とうとう議会でも、バートランドの処置を考えないわけにはいかなくなった。
「彼の言動は、挙国一致をみだし、徴兵にも重大な支障をきたすことになる」彼の身辺には、いっそうきびしい監視の目が光りだした。どんな小さな言動も見のがさず、逮捕の手がかりをつかもうとした。一九一八年、当局はその機会をつかんだ。その少し前、バートランドは、『徴兵反対同盟』の機関紙『ザ・トリビューナル』で、アメリカのヨーロッパ派遣軍ををこっぴどく批判し、イギリス政府の無能ぶりをこきおろした。当局はそれをとりあげて問題にしたのだ。
「彼は非国民だ。戦争防害者だ。」
「このままほおっておいてはいけない。だんこ逮捕して監禁すべきだ。」
「これはあきらかに、アメリカ軍、ならびにイギリス政府にたいする中傷である」と当局はいって、すぐさまバートランドを告訴した。その結果、彼は裁判にかけられ、六か月の禁固刑をいいわたされた。
「わたしはアルキメデス(紀元前二八七年?~紀元前二一二年、古代ギリシャの数学者で物理学者)のように、永遠なるものをさがしもとめていきたい。」といって、バートランドはブリクストン刑務所につながれたのだった。
学校経営にのりだす
バートランドは、イギリス政界の大立者ジョン・ラッセル卿の孫であり、有名な学者だった。まさか、どろぼうやかっぱらいなんかといっしょに護送車におしこんで刑務所へ送るわけにはいかない。当局は相談したあげく、特別にハイヤーを頼んで、送ることにした。「どうせ行き先は決まっているのだ。よけいな気など使わずに、規則どおり、護送車で送ればいいのに。」バートランドは皮肉そうに笑いながらいった。
「囚人二九一七号、姓名 B.ラッセル」
これが刑務所で与えられた、バートランドの呼び名だった。監禁とはいっても、彼はふつうの囚人とはちがって、とてもゆるやかな取り扱いを受けた。これは兄のフランクや友人たちがいろいろと骨をおってくれたおかげだった。彼が入れられたのは、広くて感じのいい部屋だった。そのかわり部屋代として毎週2シリング6ペンス払わなければならなかった。兄の妻の心づかいで、いすやテーブルやベッドなども、特別なものを持ち込むことを許され、じゅうたんも敷くことができた。こうして彼のいっぷうかわった獄中生活は始められた。
彼はここへくる前、一つの計画をたてた。ここにいるあいだに『数理哲学序説』を書きあげることだ。それで八時の消灯を十時にのばしてもらい、きちんとした日課を決め、さっそく仕事にとりかかった。それには、こんなぐあいのいいところはなかった。電話もかかってこなければ、たずねてくる人もない。おちついて、思うぞんぶん仕事にうちこむことができた。まるで天国にいるみたいで、なにひとつ不足のいいようのない生活だったが、ただ友人たちとかってに会えないのと、大好きなタバコがすえないのはつらかった。彼はそのつらさを忘れるためにも、一生けんめい仕事に励んだ。仕事に疲れると、ペンをおいて、小さな窓から、空をあおぎ、そこはかとないもの思いにふけった。そんなとき、彼の目の前を過ぎていくのは、朝霧にぬれたアルプスの牧場や、美しい地中海の海の色や、明るい陽光に輝くコルシカの山やまだった。彼は思う。わたしは自由だ。彼らはわたしの肉体をとじこめた。でもわたしの精神まではとじこめることができなかった。
九月、彼は獄中で書きあげた『数理哲学序説』の原稿をたずさえ、平和と自由のために闘う決意をあらたにして、ブリクストン刑務所から出てきたのだった。一九一八年十一月十一日、戦争は連合国側の勝利に終わった。
イギリス国民の喜びの声の中に『徴兵反対同盟』の仕事は終わったのだった。彼はふたたび考える人にもどった。
戦争は世界に大きな変革をもたらした。ロシア革命もその一つである。戦争ちゅう、ロシアでは社会情勢が大きく変わり、一九一七年十一月、ソビエト政権が成立し、戦争の中止、大地主の土地没収、大工場の国家管理などが行なわれた。このニュースはイギリスの人びとにも、大きなショックを与え、強い関心をよび起こしたが、バートランドは、この革命に心からの声援を送り、一日もはやく自分の目で新しく生まれかわったロシアを見たいと思った。その希望が達せられたのは一九二〇年の五月だった。この月、イギリス労働党代表団がロシアを訪問することになり、バートランドも一行に同行することを許されたのだった。彼らはすばらしい歓迎を受け、特別仕立ての列車でロシア各地を見てまわった。一か月の滞在のあいだバートランドは、できるだけ各階層の人びとに会い、彼らの生活を観察した。そこで彼が知ったのは、革命指導者の中には、新社会建設の意欲にもえている人びともいたが、その半面帝政時代とかわらない権勢欲にかられた人びともいることだった。彼はこの革命を指導したレーニンにも会った。しかしその人柄からもいい印象は受けなかったし、その考え方にも同意する気にはなれなかった。彼は期待をうらぎられ、大きな失望をいだいて、イギリスに帰った。そしてさっそくペンをとり、『ボルシェヴィズムの実践と理論』(みすず書房版訳書名は、『ロシア共産主義』)を書いて出版した。しかしこれは、イギリスの社会主義者たちから、激しい非難をあび、友人たちの中にも、彼から離れていく者がいた。
ロシア旅行の疲れをいやすまもなく、バートランドは中国への旅にのぼった。こんどはドーラ・ブラックという女性が同行した。この旅行の目的は、北京その他の大学で講演を行なうことと、中国を視察することだった。彼は、およそ一か年間北京に滞在して、その目的をはたしたが、翌年、ひどい急性肺炎にかかって、一時は「ラッセル卿、北京で死去す」というニュースが、世界じゅうに伝わったほどだった。さいわい九死に一生をえて、イギリスに帰ることになったが、この機会を利用して、日本を訪れることにした。
これは、雑誌『改造』を発行している改造社の招きによるものであった。『改造』は、民衆解放の主張をかかげて、マルクス主義的な論文を多くのせ、わが国の社会主義運動に大きな貢献をした、進歩的な雑誌だった。バートランドもこの雑誌に「愛国心の功過」そのほかの論文を書いていた関係から、同社の招きをうけることになったのだった。しかし、そのころの日本は、軍部が強い勢力をふるって、きびしい言論取りしまりを行なっていたから、非戦論者であり、自由主義者であるバートランド・ラッセルを、はたして入国させるかどうかわからなかった。しかしなんといってもラッセルは、イギリスの貴族であり、世界的な学者だった。もしその入国を許さないようなことがあったら、イギリスとの国交にも影響を与えるのではないかということから、入国許可が出たのだった。
バートランドを乗せた船が神戸に着いたのは、一九二一年夏の盛りだった。波止場には、大勢の労働者が歓迎に集まった。しかし警察は、波止場への立ち入りを禁じて、ごくわずかな代表を入れただけだった。これを皮切りに、官憲の防害は、彼が日本にいるあいだじゅう続けられた。バートランドは、まず京都で講演することになっていた。しかし、届け出の時間が少しばかりおくれたのを口実に、当局はこの講演会を開くことを許さなかった。またバートランドが泊まっていたホテルには、私服の刑事をはりこませて、彼の行動を監視させたり、外出のさいには、尾行させたりした。そんなわけで、バートランドは、特別な用事のないかぎり、ホテルにとじこもって、散歩にも出ようとしなかった。しかし、そういう官憲の圧迫があったにもかかわらず、東京の慶應大学で行われた講演会は大成功だった。(右写真:慶應義塾大学大講堂は、1945年5月の東京大空襲で焼失)
第一次大戦中のバートランドの反戦活動や学者としての業績は、日本でもよく知られていた。この講演会には、大勢の人びとがつめかけ、会場にはいりきれない者は、外に立って、一目でもこの偉大な人物を見ようとしたのだった。
一九二一年、バートランドは、中国、日本への旅を終えて、イギリスに帰ると、アリス夫人と正式に離婚し、この旅に同行したドーラ・ブラック(ドラ・ブラック)と結婚した。彼女はケンブリッジ大学のガートン・カレッジを出て、母校の特別研究員をつとめていたインテリ女性だが、快活で行動的で、小妖精のような魅力にあふれた女性だった。娘時代の彼女の願いは、一日も早く結婚して、子どもを持ちたいということだった。その願いどおり、彼女はバートランドと結婚すると、まもなく長男のジョンを生み、やがて長女のケートを生んだのだった。
一九二七年、バートランドは、ドーラ夫人と協力して、学校経営にのりだした。前にもいったようにイギリスでも指折りの貴族の家に生まれたバートランドは、ふつうの子どもたちが行くような学校には行かないで、大学へ行くまでの教育は、祖母がやとった家庭教師によって行なわれたのだった。
彼は教育についても大きな関心をもち、一九二六年には『教育論』を書いたが、そのころの幼少年教育には、強い不満をもっていた。
「学校は知識をつめこむだけではいけない。子どもたちの情操をやしない、真の人間をつくるところでなければいけない。」ドーラ夫人も同じ考えだったので、二人はそういう学校をつくることにした。さいわいピータースフィールドに、兄のフランクが持っていた、あいた建て物があったので、そこを借りて、校舎にあてることにした。この学校はビーコン・ヒル・スクールと名づけられ、バートランドの考えによる新しい学校教育が始められたのだった。彼がここで教えようとしたのは、自由と訓練の調和ということで、子どもたちの自由を認めながらも、野放しに放任することではなく、社会にたいする義務を教えようとしたのだった。
この仕事には、ドーラ夫人も、ひじょうにのり気で、主として経営面を担当した。ビーコン・ヒル・スクールは、たちまち教育に関心をもつ人たちのあいだで評判になり、毎日たくさんの参観者がおとずれるようになった。そのためバートランドは、おちおち仕事もできないありさまだった。学校経営にはばく大な資金がいった。しかしバートランドもドーラ夫人も、そういうことにはまったくなれていなかったので、たちまち大きな赤字を出して、財政難に落ち入った。バートランドはなんとか苦境をきりぬけるため、いっそう精を出して原稿を書き、講演などもできるだけ引き受けて、資金をかせぎださなければならなかった。こうしてこの学校はラッセル夫妻の努力で足かけ八年間続けられたが、とうとう二人のあいだに、教育上の意見の相違がおきて、一九三四年、バートランドはドーラ夫人にあとをまかせて、ついにこの学校から手をひいたのだった。
しかしこの八年間にえた経験は、彼の教育理論に大きな進歩をうながしたのだった。
一九三一年、まだバートランドがビーコン・ヒル・スクールにいたころ、この事業の後援者だった兄のフランクが死んだ。彼はそのあとをついで、第三代目のラッセル伯爵になった。
バートランド・ラッセル事件
一九三八年、一通の外国郵便がバートランドのもとに届いた。差し出し人はアメリカのシカゴ大学で、彼を教授としてむかえたいというのだった。バートランドはこれまでに数回、アメリカをたずねて、各地の大学で講演したり、また一九一四年には、ハーバード大学で講義を行なったこともある。そんなわけでアメリ力には友人も多かった。彼は喜んでこの申し出を受け、家族を連れて、アメリカへ渡った。シカゴ大学での講義をおえたあと、翠三月にはカリフォルニア大学教授になった。いなか暮らしの好きなバートランドは、ロサンゼルス郊外の、静かないなか家に住んで、大学へ通うかたわら、著述に励んだ。一九四〇年になると、ハーバード大学から特別講演の依頼があり、続いてニューヨーク市立大学から、あなたを哲学科の教授に任命したいという知らせがあった。それでバートランドは、さっそくカリフォルニア大学にたいして、退職の手続きをとったが、ひと足ちがいで、ニューヨーク市立大学から、困ったことが起こったからしばらく退職手続きをとるのを待つようにといってきた。しかしもうおそかった。バートランドの退職願いは正式に受理され、いまさらどうすることもできなかった。
いったい、困ったことというのは、なんだったのだろう。ニューヨーク市立大学、その名が示しているように、ニューヨーク市が運営している学校だった。ところが当時のニューヨーク市は、カトリック教徒やユダヤ人が強い勢力をしめているところで、大学も、その支配を受けないわけにはいかなかった。バートランドの任命が決まると、カトリック教徒のあいだから反対の声があがった。その音頭をとっていたのは、マニングという英国協会の司教だった。
「バートランド・ラッセルは神を認めない男だ。そんな人物を、わがニューヨーク市立大学教授に任命した大学当局や市高等教育委員会の猛省をうながす。」彼は新聞やその他の刊行物に(注:変な日本語 → 彼について新聞やその他刊行物は)、盛んにこう書きたてた。マニングはさらに、バートランドが書いた『結婚と道徳』を、善良な社会秩序をみだす不道徳な本と決めつけ、そんな本を書いた人物に、だいじなわれわれの子弟の教育をまかすことはできないと、わめきたてた。こういう声にあおられて、ラッセル排斥運動はたちまち全市に広がった。人びとは大学当局や高等教育委員会におしかけて、ラッセルの任命取り消しを要求した。しかしこれにたいして、宗教や政治が教育に口出しするのをにがにがしく思っていた人びとは、ラッセルを守れといって、いっせいに立ちあがった。その中心となったのは、良識ある知識人や学者で、アメリカ大学教授連盟、文化自由委員会、哲学関係の諸学会、アインシュタイン博士をはじめとする学者たちも、これに参加した。また宗教家の中にも、この運動に加わる者がいた。彼らは、もしラッセルの任命が取り消されるようなことがあれば、ニューヨーク市ばかりでなく、アメリカ全体の恥だと叫んで「反対派」に対抗した。こうしてラッセル事件は、アメリカ全土に広がっていった。三月十八日、この問題に決着をつけるため、高等教育委員会で、投票が行なわれ、ラッセルの任命が決まった。良識と理性の勝利だと、ラッセル派の人びとは喜んで祝杯をあげた。しかしこれで「反対派」がおとなしくひきさがったわけではなかった。彼らはこんどは別の手を考えて、この大学に娘をやっていたある婦人を使って、ラッセル任命の責任者である高等教育委員会をうったえさせた。こうしてこの事件は、最後に、この婦人と高等教育委員会との裁判ざたになった。事件の中心人物でありながら、いままでつんぼさじきにおかれていたバートランドは、この裁判に出席して、自分の考えを述べたいと思った。それで裁判に出られるように市当局に申し出たが、この願いは、あっさりにぎりつぶされてしまった。こうして三月三十日、判決が下された。裁判にあたったのは、マクギーンという、ローマ・カトリックの判事だった。彼は、バートランドがアメリカ人でないこと、その著述が不道徳であることなどを理由にして、ラッセルの任命は取り消されるべきであるとの判決を下した。バートランドは「自由の女神」によって象徴されるアメリカも、けっして自由の国ではなかったことを知ったのだった。
「大学がわたしに求めたのは、数学と論理学を教えることで、わたしの道徳観を教えることではなかった。わたしもそんなつもりはなかった。しかしわたしにも、自分の道徳観をのべる自由はあるはずだ。言論の自由は、アメリカの憲法でも保証されている。」その自由がふみにじられたのだ。バートランドは、大きな怒りをこめて、そういう公開状を新聞に発表した。
この事件は、これで終わったわけではなかった。それからも長く尾をひいて、バートランドを苦しめた。この事件をつうじて宗教と道徳を破壊する危険人物というレッテルをはられたバートランドには、もうどこの大学からも、講演の依頼がなくなった。執筆を頼んでくる新聞や雑誌もなかった。四人の家族をかかえて、収入の道をたたれたバートランドは、生活にも困るありさまだった。さいわい『バーンズ財団』が、彼に同情して、西洋哲学史の講義を頼んできたので、一時は息をつくことができたが、それも長くは続かないでき一九四三年には、鼻の病気で、そこをやめなければならなかった。(松下注:この記述は間違い。一方的に解雇されたのは、バーンズ博士とのトラブルが原因)
それからは、いままで出した本や、これから書く本の印税(著者が出版社からうける報酬)の前借りをして、どうやら一家の生活をささえた。一九四五年に出版された『西洋哲学史』はこうして書かれたもので、バーンズ財団で行なった講義をもとにしたものである。
一九四四年、バートランドの母校ケンブリッジ大学は、異国にあって苦しい生活をしていた彼を招いた。彼はとび立つ思いで、ドイツ潜水艦の出没する大西洋を渡って、第二次大戦下のイギリスに帰った。故国の山河は、傷つき疲れて帰ってきた老学者を、あたたかく迎えた。そこには、彼を理解するたくさんの友人たちもいた。「ラッセル事件」のことは、イギリスでもよく知れわたっていた。はじめて彼がケンブリッジの教壇に立ったとき、学生たちは拍手して、この異国で自由のために闘ってきた老学者を迎えた。あらしのような拍手の中にしばし立ちつくしていたバートランドの目には、きらりと光るものがあった。
「未来はこの若者たちのものだ。彼らを、おろかな戦争の犠牲にしてはならない!」彼は心の中で叫んだ。そして残された生活を平和のためにささげようと、かたく心に誓ったのだった。
核戦争をなくすために
世界の自由と平和を叫び続けてきたバートランドにとって、一九四五年、広島、長崎に落とされた原子爆弾は、大きなショックだった。核兵器の使用をいますぐやめなければ、地球は破壊され、人類は滅んでしまうだろうと思った。彼はイギリス上院で、このままだとかならず近い将来原爆よりもさらに恐ろしい水素爆弾が実用化されるだろうと予言し、「原水爆戦争をいかにしてさけるべきか」という文章を発表して、全世界の人びとに警告した。こうしてバートランドの核兵器廃止運動は始められたのだった。一九五八年、彼は『核兵器反対同盟』をつくって、八十六歳の老くをひっさげ、その先頭に立って、活発にこの運動をおしすすめた。そして一九六〇年、運動方針についての意見のくいちがいから『同盟』が解散されると、百人の同志を集めて「百人委員会」をつくり、いっそう活発な運動にはいった。『百人委員会』は強力に、そしてねばり強く闘った。目的貫徹のためには、当局の警告を無視して、米ソ大使館前や議事堂前でのすわりこみデモもやった。そしてその先頭には、いつも年老いたラッセル伯の姿があったのだった。
一九六一年八月、ソ連が一時やめていた核実験を行なうことを発表すると、『百人委員会』は、ソ連大使館に抗議デモを行なった。
「今回のソ連の決定は、かならず西欧側の核実験再開をうながすことになるだろう。すべての平和の友は、今回のソ連の決定を、心からいかんに思わなくてはいけない。」ラッセルは、そのときそういう声明を出した。『百人委員会』はさらに十月にも、一万人を動員して、トラファルガー広場で、核兵器反対の抗議すわりこみを行なうことになっていた。しかしその前、バートランドは、大衆を扇動して、治安をみだす行動にかりたてたという理由で逮捕され、裁判にかけられた。
この裁判は、一九六一年九月十二日、ロンドン中央警察裁判所で行なわれた。裁判所の前には、各新聞社の車がずらりと並び、記者やカメラマンがあわただしく右往左往していた。全イギリス国民は、この日の裁判を、大きな関心をもって見守っていたのだ。開廷の時刻がせまって、法廷の大扉が開かれると、弁護人にささえられて、バートランドがはいってきた。まっ白な髪、いたいたしいまでにやせほそったほお。大勢の傍聴人のあいだに、かすかなざわめきが起こった。
「ラッセル伯だ!」弁護人に助けられて、バートランドは静かに被告席についた。イギリスが世界にほこる数学者、哲学者バートランド・ラッセル伯の裁判が、いま始まろうにしていたのだ。やがてバートラム・リース判事によって、開廷が宣せられた。リース判事は、起訴理由を読み終わると、そこでひと息いれて、いたいたしげに被告席のバートランドを見た。
「バートランド・ラッセル伯、あなたは今後このような行動をしないと誓いますか」リース判事はいくらか声をやわらげて聞いた。彼としては「誓う」と答えてくれれば、それで無罪とする考えだった。新聞記者も傍聴人も、かたずをのんで、バートランドの答えを待った。一瞬しーんとなった法廷に、彼の声が、はっきりと響いた。
「ノー!」リース判事も、もうどうすることもできなかった。
「それではあなたを有罪としなければなりませんが。」
「わたしは有罪となることを、少しも恐れはしない。それによって、あなたもわたしたちの運動に力をかしてくれることになるのですからね、判事。わたしが有罪となったら、世界の世論はわきたち、イギリスを、そして世界を核兵器の惨害から救おうとするわたしたちの運動は、ますます盛んになっていくだろう。」
「被告人を禁固二か月に処します。」と、判決をいいわたした。とたんに傍聴席がさわぎだした。
「お気のどくな。」監視員の注意で、ようやく法廷が静かになったとき、弁護人が立ちあがっていった。
「なんてひどい裁判だ!」
「裁判長、ラッセル伯は、病気中です。二か月の禁固には、とうていたえられません。」
「それはわたしのきめることではありません。刑務所の医師がきめます。」とつぜん、傍聴人席からかん高い女の声が起こった。
「いいえ、判事さん、あなたが決めるべきですよ。逃げるなんて、ひきょうだわ。」法廷はまたそうぜんとなって、あっちこっちから、判決の不当を鳴らす声が起こった。それでとうとう判事も、病気を理由に、禁固一週間ということに、判決を改めなければならなかった。
「そうだとも、病人を牢に入れるなんて。」
こうしてバートランドは、ブリクストン刑務所に送られたが、そこはくしくも四十年あまり前(第一次世界大戦中)、平和主義をとなえて禁固六か月に処せられた思い出の場所だった(松下注:これは間違い。ラッセルは刑務所ではなく、病院に軟禁状態にされただけである)。このときの裁判で、バートランドといっしょにこの運動に加わっていた夫人も、三人の同志とともに二か月の禁固刑をいいわたされ、ほかにも二十七人の同志が、それぞれ一か月の禁固刑をいいわたされたのだ。
「世界の人びとは、あやまった政府のもとで、核戦争への道を歩いている。このままでいくなら、地球は生命のない廃墟となって、永久に太陽のまわりを回転することになるだろう。わたしたちの運動をやめてはならない。きたる十二月二十九日の抗議デモは、あくまでもやりぬくのだ。」バートランドは刑務所内から、そう声明した。それにこたえるように、その日になると、大勢の人が、デモ隊の集合地に決められていたトラファルガー広場に向かって行った。ロンドンは朝から雨だった。降りしきる雨の中を、かさもささずに三々五々、広場へいそぐ人びとの姿が、早朝から見られた。男もいた。女もいた。学生もいれば、サラリーマンや工場労務者もいた。彼らがかかげていたプラカードには、「核武装反対!」「原水爆の製造実験を禁止せよ!」などの文字が、雨ににじんでいた。人びとの群れは、あとからあとからと続いた。トラファルガー広場へ! トラファルガー広場へ!
「このあんばいだと、きょうのデモはただじゃすまないぞ!」広場の内外は、ただならぬ空気につつまれていた。この日トラファルガー広場に集まった群集は二万にのぼった。予定の一万人の倍になったのだ。ラッセル伯らにたいする不当な判決が、ロンドン市民を怒らせたのだ。広場のまわりは、四千の警官によって、アリのはいでるすきまもなく、とりかこまれていた。彼らはそこに群集をとじこめて、一歩も出すまいとした。とつぜん、人びとの中から、叫び声があがった。
「警戒線を突破して、議会におしかけろ!」わあっという喚声とともに、二万の群集は、せきをきったように動き出し、警官隊に向かってぶつかっていった。たちまち激しいもみあいになったが、デモ隊はおし返されて、また広場にとじこめられてしまった。しばらくは重苦しいにらみあいが続いていたが、そのうちに群集は、また警官隊に向かっておし出していった。前にもましてすさまじい乱闘が、あっちこっちで起こった。プラカードがくだけ、警官の帽子がふっとんだ。とっくみあっている者、なぐりあっている者・・・。ようやくかこみをやぶってとび出した者は、どろんこの道路にすわりこんで、警官隊をののしった。警官はそういう連中を片っぱしからゴボウ抜きにして、トラックに積み込み、警察署に運んでいった。こうして『百人委員会』の運動は、官憲のきびしい弾圧をはねのけながら、それからも活発に続けられた。
年とともにエスカレートする、列強の核兵器製造競争にたいし、ラッセルがどんなに大きな危機感をいだいていたか――わたしたちは、一九五九年に発表された彼の『自伝的回想』から、うかがい知ることができる。その中で、彼はこううったえている。
「わたしはいまイギリス人としてではなく、その存続をあやぶまれている人類の一人として、語ろうと思う。わたしが話しかけようとするのは、特定のグループの人たちではなく、すべてのグループの人たちである。なぜなら、わたしが話そうとするのは、全人類の危機についてであり、それが理解されれば、その危機からまぬかれることができるからである。(いまわたしたちが考えなければならないのは、あらゆる方面に大きな惨害をもたらす、武力による抗争をふせぐには、どうすればいいかといことである。多くの人びとは、まだ水素爆弾の恐ろしさを、ほんとうには知っていない。新しい水爆は、古い原爆にくらべ、はるかに恐ろしい威力をもっている。広島は一発の原爆で壊滅したが、一発の水爆は、ロンドンやニューヨークのような大都市でもわけなく破壊することができると考えられている。「大衆といっしょになって悪を行なってはいけない!」
ビキニ(西太平洋にある環礁。一九四六年以来、米国の原水爆実験場となった)での実験以来、水爆は、想像以上に恐ろしいものであることがわかった。専門家のいうところによれば、今日では広島に投下された原爆の二万五千倍の破壊力をもつ水爆も製造できるということである。地上または水中で爆発した水爆は、強い放射能をおびた微粒子を高く上空にふきあげ、それはやがて、死の灰となって地上に降ってくる。ビキニの実験でも、この死の灰は、アメリカの専門家が安全といっていたところにまで降ってきて、そこにいた日本人船員を汚染したのである。(一九五四年の実験で日本の漁船第五福龍丸の乗員が被災した。)水爆戦争によって(水爆を使った戦争が起これば)全人類が絶滅するだろうということは、多くの学者が口をそろえていっているところである。イギリスの空軍大将フイリップ・ジョーバート卿はこういっている。
'水爆の出現によって、人類は、戦争をやめるか、それとも絶滅するか、どちらか一つを選ばなければならなくなった。'
しかし多くの人びとは、近代兵器の製造、使用をやめさえすれば、戦争はあってもしかたがないではないだろうかと考えている。だがわたしはそういう考えはまちがっていると思う。なぜなら、たとえどんな水爆禁止の協定が結ばれたとしても、いざ戦争となればそんな協定は無視され、敵も味方も水爆の製造を始めるにちがいないからである。戦争をさけるための協定を実現させることができるのは、戦争の惨禍について語ることのできる中立国である。彼らは、自分の利益を守るという点からも、世界戦争が起こらないようにする権利をもっている。なぜなら、水爆戦争のような戦争が起これば、全人類とともに、彼らも死滅しなければならないからである。もしわたしがある中立的政府を思いのままにすることができるとすれば、わたしはその国の人びとをそういう死から救うことを、自分の最大の義務とするだろう。そしてそのためには、鉄の力ーテンの両側にある国ぐににたいして、戦争防止のために和解するよう働きかけるだろう。
わたしは戦争によって東西の対立に決着をつけようとするのは、まちがっていると思う。このことは鉄のカーテンの両側で理解されなければならない。そのためには、いくつかの中立的な強国が、中立的な立ち場にある専門家の委員会をつくって、水爆戦争の破壊的な結果についての報告書をつくり、それを世界の列強に示す必要がある。
人類は、その知恵の結果が地球上の全生物を絶滅させるほど、おろかでおたがいに愛することができないものなのだろうか。しかしわたしは、まだおしまいとは考えていない。もしわたしたちがしばらくのあいだ戦争を忘れ、真剣に、生きることを考えるなら、わたしたちの未来は、輝かしいものとなるだろう。そして、もしわたしたちがほんとうにそれをのぞむなら、わたしたちの将来には幸福と知識の休みない進歩が待っているのである。
少年の日、祖母から教えられたこのことばは、バートランドの頭に強く焼きついて、一生はなれなかった。いや、その火は、年を重ねるにつれて、ますます激しく、彼の胸の中に燃えあがったのだった。
一九六一年、二万の市民をトラファルガー広場に動員して、核兵器撤廃のため闘ったバートランドは、いままた新しい悪に立ち向かっていった。ベトナム戦争である。この戦争は、一九六二年に起こった。ベトナム戦争はこの国の経済的支配をたくらむアメリカの侵略行為によってひき起こされたものである、と考えた彼は『百人委員会』の同志とはかって、ベトナム戦争反対の運動を起こした。
彼は戦争を心からにくんでいたが、その理由の一つは、戦争にともなう残虐行為であった。ベトナムでも、人道にそむく、そういう恐ろしい事実が、つぎつぎと伝えられた。この文明時代に、そんなことが許されていいものだろうか。彼は『ベトナムにおける戦争と残虐行為』という本を書いて、世界にうったえた。『百人委員会』の運動が激しくなるにつれ、アメリカを非難する世界の声は高くなった。困った。アメリカは委員会を切りくずしにかかり、大きな財力にものをいわせて、彼らの口をふさごうとした。そのため、委員会のメンバーの中にも、会から離れていく者がいた。『百人委員会』はバートランドが手塩にかけて育ててきた団体だった。委員たちは彼とともに弾圧に抗し、苦しい闘いを続けてきた同志だった。しかしこうなっては、もう彼といっしょに行動することはできなかった。一九六三年、彼は涙をのんで『百人委員会』を解散し、新しい同志とともに、『バートランド・ラッセル平和財団』をつくり、ついで一九六六年に『ベトナム共同連帯同盟』をつくって、全世界の人びとに、平和へのアピールを叫び続けた。だがその願いがまだはたされない一九七〇年二月二日、九十七歳の高齢にたっしたバートランドは、北ウェールズの山荘で、生涯の幕をとじた。しかしその長い一生を自由と正義の闘いにささげつくしたバートランド・ラッセルの名は、二十世紀の良心、偉大な平和の戦士として、いつまでも歴史にのこることだろう。(完)
pp.83-92: 略年譜 ← これは省略