第17章 権力の倫理学, n.3 - キリストが受けた三度目の誘惑
荒野に立ったキリストが受けた三度目の誘惑は、両者の欲求(手段としての権力を欲求することと権力自体を欲求すること)の区別を例証している。キリストは,もし堕落して悪魔を崇めるならば、地上の全ての王国を与えようと(悪魔から)言われる(is offered 提案される)。換言すると(that is to say 即ち),若干の目的を達成するための権力を提案されるが、しかし,それらの目的はキリストの念頭にあった目的ではなかった。これは,ほぼ全ての現代人がさらされる誘惑であり、時として下品な(粗野な)形で、時として非常に微妙な形でさらされる。現代人の彼は、社会主義党員であるけれども(a Socialist と大文字)、保守党の新聞(社)(a Conservative newspaper と大文字)の職(position 勤め口)を受け入れるかも知れない。これは比較的下品な(粗野な)形のものである。彼は,平和的な手段によって社会主義を達成(成就)することに絶望し(達成不可能と考え)、共産主義者になるかもしれないが(注:みすず書房版の東宮訳では、the achievement of Socialism を「社会主義の業績」と誤訳している),それは、そのようにして(共産主義者に変わることによって)自分の望むものが達成されると考えるからではなく、(自分が望んでいるものではない)何かがそれによって達成されるであろうと考えるからである。自分の望んでいないことを擁護して成功することよりも,自分が望んでいることを擁護(主張)して失敗することのほうがより無益であると彼(=現代人)には思われる。しかし、彼の望むものが -自分の成功以外のものであり-、強烈かつ明確なものである場合には、その欲求が満たされないのであれば、彼の権力愛に対し満足はまったく存在しないであろうし、成功のために自分の目的を変えることは、彼にとって、悪魔を崇拝するようなものだとみなすことができるであろうほどの変説行為に思われるであろう。
|
Chapter 17: The Ethics of Power, n.3
Christ's third temptation in the wilderness illustrates this distinction. He is offered all the kingdoms of the earth if He will fall down and worship Satan; that is to say, He is offered power to achieve certain objects, but not those that He has in view. This temptation is one to which almost every modern man is exposed, sometimes in a gross form, sometimes in a very subtle one. He may, though a Socialist, accept a position on a Conservative newspaper; this is a comparatively gross form. He may despair of the achievement of Socialism by peaceful means, and become a Communist, not because he thinks that what he wants will be achieved in this way, but because he thinks that something will be achieved. To advocate unsuccessfully what he wants seems to him more futile than to advocate successfully what he does not want. But if his wants, other than personal success, are strong and definite, there will be no satisfaction to his sense of power unless those wants are satisfied, and to change his objects for the sake of success will seem to him an act of apostasy which might be described as worshipping Satan.
|