第16章 権力哲学, n.6 - ベルグソンの創造的進化
ベルグソンの創造的進化は(も)(一つの)権力哲学であり,これはバーナード・ショーの『メトセラに帰れ』(注:メトセラは 969歳で死んだ聖書の中の長命な人物の名前であり,人間が円熟した年齢に達するためには少くとも数百年の寿命を必要とし,それが得られなければ理想社会の実現は不可能だと述べられている。詳細は,盛岡稔「『メトセラへ還れ』における「創造的進化」参照)の最終幕で幻想的に展開されている。ベルグソンは,知識人は,不当に受動的でありただ静観しているだけだとして,非難されるべきであり,(たとえば)騎兵隊の突撃(charge)のような生き生きとした行動をとっている間に真にものをみるだけであると考える(という思いを抱く)。ベルグソンは,動物に眼ができたのは(目を獲得したのは),物を見ることができたほうが愉快だろうと動物が感じたからである,と信じている。動物の知能は -(目を獲得する前の)動物は盲目であったので- 見ることについて考えることはできなかったであろう。しかし(動物の)直観はこの奇蹟(注:「目の獲得」)を起こすことができた。全ての進化は,ベルグソンに従えば,欲求(欲望)によるものであり(おかげであり),欲求(欲望)さえ十分に熱情をもったものであれば,達成できるものに限りはない(ということになる)。(彼によれば)生化学者が,生命のメカニズム(機構/機械的な仕組み)を理解しようとして手探りする試み(暗中模索する試み)は,生命は機械的なものでないゆえに,また,生の発展は常に知性が前もって想像することが本質的に不可能なものゆえに,徒労である(注:groping attempts 手探りする試み/grouping と身間違わないよう注意)。(つまり)生命を理解することができるのは,行為の上においてだけである。以上から,(彼によれば)人は熱情的かつ非合理であるべきだ,ということになる。ベルグソンにとって幸いにも,人間は通常熱情的かつ非合理である。
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Chapter 16: Power Philosphies, n.6
Bergson's Creative Evolution is a power-philosophy, which has been developed fantastically in the last Act of Bemard Shaw's Back to Methuselah. Bergson holds that the intellect is to be condemned as unduly passive and merely contemplative, and that we only see truly during vigorous action such as a cavalry charge. He believes that animals acquired eyes beause they felt that it would be pleasant to be able to see; their intellects would not have been able to think about seeing, since they were blind, but intuition was able to perform this miracle. All evolution, according to him, is due to desire, and there is no limit to what can be achieved if desire is sufficiently passionate. The groping attempts of bio-chemists to understand the mechanism of life are futile, since life is not mechamical, and its development is always such as the intellect is inherently incapable of imagining in advance; it is only in action that life can be understood. It follows that men should be passionate and irrational ; fortunetely for Bergson's happiness, they usually are.
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