第16章 権力哲学, n.2 - 意志と制御できない事実との間の相互作用偉大な宗教(世界の大宗教)は徳(美徳)を目指すものであるが,通常は徳以上のものも目指す。キリスト教と仏教は(人間の)救済を求め,それらの比較的神秘的な形態においては,神あるいは宇宙との合一を求める(注:密教など)。経験哲学は真理を求め,一方,デカルトからカントに至る観念論哲学は確実性を求める。実際に,カント(も含めて)に至るまでの全ての偉大な哲学者たちは,主として,人間性のうちの認識的な部分に属する諸欲求(欲望)に関心を持っている(とりあげている)。ベンサムの哲学及びマンチェスター学派の哲学は,快楽を究極の目的と考え,また,富を(その目的のための)最も主要な手段と考える。現代(近代)の権力哲学は,主として,いわゆる「マンチェスター主義(Manchesterismus)」に対する反動として起こったものであり,人生の目的は一連の快楽(の追求)-それはあまりにも断片的かつ積極性に乏しい目的だとして非難されている- であるとする見方に対する反動として起こったものである。人生は,(自らの)意志(意欲)と(人間が)制御できない事実との間での絶え間ない相互作用であり,権力衝動によって導かれる哲学者は,自分自身の意志の結果ではない事実が演ずる役割(部分)を最小限にしようとするかあるいは非難しようとする。私が今考えている哲学者は,単に,マキャベリや(プラトンの)『共和国』におけるトラシュマコスのように,むきだしの権力を讃美した人々のことだけではない。私は,自分自身の権力愛を,形而上学や倫理学の衣装の下に(中に)隠している諸理論を発明した人々のことを考えているのである。近代(現代)におけるそのような哲学者の筆頭で,また最も徹底したものは,フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762-1814:ドイツの観念論哲学者で,G.W.F.ヘーゲルに影響を与えた。)である。 |
Chapter 16: Power Philosphies, n.2
Human life being a perpetual interaction between volition and uncontrollable facts, the philosopher who is guided by his power impulses seeks to minimize or decry the part played by facts that are not the result of our own will. I am thinking now not merely of men who glorify naked power, like Machiavelli and Thrasymachus in the Republic; I am thinking of men who invent theories which veil their own love of power beneath a garment of metaphysics or ethics. The first of such philosophers in modern times, and also the most thorough-going, is Fichte. |