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バートランド・ラッセル 権力 第15章 - Power, 1938, by Bertrand Russell

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第15章 権力と道徳律, n.9 - 神の媒介者としての教会及び聖職者

 聖職者(priests 僧侶)の権力が他のいかなる形態の権力よりも道徳とつながりをもっていたことは,明らかである。キリスト教諸国においては,美徳とは神の意志(御心)にかなうことにあり,神の命じたことが何であるかを誰よりもよく知っているのは聖職者(僧侶)である(ということになっている)。我々(人)は人間によりもむしろに従うべきだという教え(precept)は,我々が既に見たように,革命的なものになりうる。それは二つ(two sets of 二組)の状況でそうなる。一つは,国家が教会と対立している場合(状況)であり,もう一つは,神は個人の良心に直接に語りかけるという考えが抱かれる場合(状況)である。前者は,コンスタンティヌス帝以前に存在した状態(事態)であり,後者は,再洗礼派(注:Anabaptists 幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づく成人洗礼を認める立場)独立教会派(注:Independents イギリスの清教徒革命の中心勢力となった宗教的・政治的一派で、個々の教会の自主性を主張)の間に存在した状態(事態)である。しかし,革命のきざしがまったくない時期,たとえば,確立した,伝統的な教会が存在している時には,その教えは,神と個人の良心とをつなぐ媒介物として実際的道徳によって受け入れられる(のである)。そのような受容が続くかぎり,その教えの力は非常に大きく,教会に対する坂逆は他のどのようなものよりも邪悪なことであると考えられる(のである)。それにもかかわらず,教会にはいろいろな難点(困難な問題)がある。というのは,教会が自らの権力をあまりひどいやり方で利用すると,人々が、神の意志(御心)について教会は間違って解釈しているかどうかと(間違って解釈しているのではないかと)疑うようになるからである,そうして,次には,このような疑いが一般的になると,宗教改革時にゲルマン民族の諸国においてそうであったように,教会に関する全体系がもろくも崩れ去るのである。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.9


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The power of priests is more obviously connected with morals than any other form of power. In Christian countries, virtue consists in obedience to the will of God, and it is priests who know what the will of God commands. The precept that we ought to obey God rather than man is, as we saw, capable of being revolutionary; it is so in two sets of circumstances, one, when the State is in opposition to the Church, the other, when it held that God speaks directly to each individual conscience. The former state of affairs existed before Constantine, the latter among the Anabaptists and Independents. But in non-revolutionary periods, when there is an established and traditional Church, it is accepted by positive morality as the intermediary between God and the individual conscience. So long as this acceptance continues, its power is very great, and rebellion against the Church is thought more wicked than any other kind. The Church has its difficulties none the less, for if it uses its power too flagrantly men begin to doubt whether it is interpreting the will of God correctly; and then this doubt becomes common, the whole ecclesiastical edifice crumbles, as it did in Teutonic countries at the Reformation.
(掲載日:2018.03.01 /更新日: )