バートランド・ラッセルの『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930)の邦訳が終了したので,今度は,ラッセルの『教育論』(On Education, 1926))を取り上げることにします。 ラッセルの『教育論』は,松下が高校1年の時に,最初に読んだラッセルの著書であり,ラッセルの主張に共感して以後ラッセルを研究することになった,懐かしい本です。この本も,岩波文庫に安藤氏によるすぐれた訳がありますが,松下訳では,Web版の利点を活かしたものにしていきたいと思います。(2006.08.20) 序文世の中には,著者同様,幼い子供たちにできるだけ良い教育を与えたいと切望しながらも,既存の大部分の教育機関に見られる弊害に子供をさらしたくないと思っている親(両親)が,多数いるにちがいない。そういう親の(かかえている)困難は,個々人のいかなる努力によっても解決されうるものではない。もちろん,家庭教師(governess 女性家庭教師)や個人指導教師(tutor)を雇って,家庭で子供を育てることはできる。しかし,この方法では,子供から,子供の本性が渇望する仲間づきあいを奪ってしまうことになり,また,仲間づきあいなしでは,教育のいくつかの必須の要素が欠けることになるにちがいない。さらに,子供たちに,自分は「変わり者」で,他の少年や少女たちとは違っていると感じさせるのは非常によくない。こういった感情は--その原因が親にあることがわかると--ほとんど確実に,親に対する恨みを喚起し,親が最も嫌っていることを何でも好むようにさせるのである。'良心的な親'は,このようなこと(仲間づきあいの重要性など)を考慮して,--既存の学校はどれも満足なものとは思えないか,あるいは,満足な学校があったとしても,あいにく近所にはないとかいう,ただそれだけの理由で--やむなく,重大な欠陥があると思っている学校にわが子を入れるように駆り立てられるかもしれない。このようにして,'良心的な親たち'は,地域社会のためだけでなく,わが子のためにも,'教育改革'の動機(理由/大義名分)を押しつけられる。親が裕福であれば,彼らの私的な問題を解決するためには,全ての学校が良い学校であるべきだという必要はなく,ただ近くに(geographically 地理的に)利用できる良い学校があればよい。しかし,賃金労働者の親の場合は,小学校の改革以外,十分なものは何もない。Aの親が希望する改革にはBの親は異議を唱えるので,精力的な'教育的(政治的)宣伝'以外には何も役に立たないだろう。しかし,このような'教育的宣伝'は,改革論者の子供が成人したずっと後でないと,その効果は証明されそうにない。このようにして,私たちは,わが子への愛情から出発して,一歩一歩,政治や哲学という,より広い領域に連れ出されていく。このより広い領域については,本書では(以下のページでは),できるだけ触れないようにしたい。(注:教育と社会との関係について論じたラッセルの著作としては,Education and the Social Order, 1932 がある。/邦訳:鈴木祥蔵訳『教育と社会体制』(明治図書出版,1960年刊))私が(本書で)述べようと思っていることの大部分は,現代の主要な論争点について私がたまたま抱いている見解には依拠しない(依存しない)だろう。しかし,こういうこと(現代の主要な論争点)に関してまったく無関係であることは不可能である。私たちが自分たちの子供のために望む教育は,私たちが抱いている'人間の性格についての理想'や,子供たちが(将来)社会で果たすことになる役割についての私たちの願いなどと,かかわりを持たなければならない。平和主義者は,軍国主義者にとってよいと思われるような教育を,わが子に,望まないだろう。また,共産主義者の教育観は,個人主義者のそれと同じではないだろう。もっと根本的な(意見の)対立について言えば,教育は'ある明確な信念を注入する手段'であると考えている人びとと,教育は自立的な判断力を養う(生み出す)べきものであると考えている人びととの間には,意見の一致はまったくない。そのような問題が関係する場合には,それ(現代の主要な論点)を避けて通るのは怠惰と言わなければならないだろう。同時に,こういった究極的な問題とはかかわりはないが教育には密接な関係がある,かなり多量の新しい知識が,心理学や教育学の分野において,生まれている。そういう知識は,すでに非常に重要な成果をあげてはいるものの,その教えを十分に吸収する前に,なすべきことがまだたくさん残っている。このことは,特に生後5年間について正しい。この5年間は,従来考えられていたよりもはるかに重要であることがわかってきており,そして,それとともに,親の教育上の重要性も高まってきた。私の狙いや意図は,可能な場合はできるだけ,論争の的になっている問題は,避けるということであろう。'論争的な著作'は,ある分野では必要であるが,世の親たちに向かって語りかける時には,当然,'子や孫の幸せ(子孫の幸福'を心から願っているだろうことから,この願いだけでも,近代的な知識がともにあれば,実に多くの教育上の問題を解決するのに十分である。私がこれから述べることは,自分自身の子供のことでいろいろ思い悩んだ末に得られた結果である。それゆえ,それは,現実離れしたものでも,思弁的(理論倒れ)なものでもなく,私の結論に賛成であれ反対であれ(いずれであっても),同様の悩みをもっている他の親たちの考えを明確にするのに役立つだろう,と思う。親の(善悪の)判断(力)(opinions)は,非常に重要である(注:個々の意見 opinion ではなく,いろいろな知識の上にたった判断(力) opinions)。 なぜなら,専門的な知識がないために,親は(が),最高の教育家にとってさえ,障害になっていることがあまりにも多いからである。親がわが子のためによい教育を望むならば,良い教育を喜んで与えることのできる教師が不足しているということはまったくないと,私は確信している。 私は,この後,まず'教育の目的'を考察しようと思う。即ち,現在あるがままの質の素材に教育を施すことによって,どのような個人が生み出され,どのような地域社会が生み出されるのを見ることを期待するのが妥当か,考察したい。私は,優生学によるものであれ,あるいはその他の自然なあるいは人為的な方法によるものであれ,'人間の品種改良’の問題は一切とりあげない。なぜかというと,この問題は,本質的にいって,教育の問題の外側にあるからである。しかし,近代心理学の諸発見は大いに重視したい。それらの発見は,'人間の性格'というものは,,'幼年期の教育'によって,前の世代の最も熱心な教育家が考えていたよりもはるかに大きく左右されることを明らかにする傾向があるからである。私は,'性格の教育'と'知識の教育'--こちら(後者)は,厳密な意味では「知育」と呼んだほうがよいもの--とを区別する。この区別は便利ではあるが,究極的な区別ではない。というのは,'知育'がなされる生徒にはいくつかの'徳目'が必要であり,また,多くの重要な徳目をうまく行うためには,多くの知識が必要になるからである。しかしながら,議論を進める上で,'知育'は,'性格の教育'と切り離して考えることができる。そこで,まず第一に,性格の教育からとりあげることにしよう。なぜなら,性格の教育は,幼年期においては,とりわけ重要だからである。ただし,それをさらに思春期にまで押しすすめて,同じ題目(=性格の教育)のもとに,性教育という大事な問題を取り扱うことにする。最後に,読み書きの最初の授業から始まり,大学の最終学年に至る'知性の教育'をとりあげ,その目的(目標),カリキュラム,その可能性を論じることにしよう。成人した男女が人生や世間から学びとる,それ以上の教育については,本書で扱う範囲を越えるものとみなしたい。しかし,成人した男女が経験から学ぶことができるようにすることは,幼年期の教育がとりわけ目を離さないでおく(心に留めておく)べき目標の一つでなければならない。
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(写真)『教育論』出版の翌年(1927年)に撮影されたラッセル一家 Source: Ronald Clark's Bertrand Russell and His World, 1981 Introduction
From this wider sphere I desire, in the following pages, to remain aloof as far as possible. The greater part of what I have to say will not be dependent upon the views that I may happen to hold as regards the major controversies of our age. But complete independence in this regard is impossible. The education we desire for our children must depend upon our ideals of human character, and our hopes as to the part they are to play in the community. A pacifist will not desire for his children the education which seems good to a militarist; the educational outlook of a communist will not be the same as that of an individualist. To come to a more fundamental cleavage: there can be no agreement between those who regard education as a means of instilling certain definite beliefs, and those who think that it should produce the power of independent judgement. Where such issues are relevant, it would be idle to shirk them. At the same time, there is a considerable body of new knowledge in psychology and pedagogy which is independent of these ultimate questions, and has an intimate bearing on education. Already it has produced very important results, but a great deal remains to be done before its teachings have been fully assimilated. This is especially true of the first five years of life; these have been found to have an importance far greater than that formerly attributed to them, which involves a corresponding increase in the educational importance of parents. My aim and purpose, wherever possible, will be to avoid controversial issues. Polemical writing is necessary in some spheres, but in addressing parents one may assume a sincere desire for the welfare of their off-spring, and this alone, in conjunction with modern knowledge, suffices to decide a very large number of educational problems. What I have to say is the outcome of perplexities in regard to my own children; it is therefore not remote or theoretical, and may, I hope, help to clarify the thoughts of other parents faced with a like perplexity, whether in the way of agreement with my conclusions or the opposite. The opinions of parents are immensely important, because, for lack of expert knowledge, parents are too often a drag upon the best educationists. If parents desire a good education for their children, there will, I am convinced, be no lack of teachers willing and able to give it. I propose, in what follows, to consider first the aims of education: the kind of individuals, and the kind of community, that we may reasonably hope to see produced by education applied to raw material of the present quality. I ignore the question of the improvement of the breed, whether by eugenics or by any other process, natural or artificial, since this is essentially outside the problems of education. But I attach great weight to modern psychological discoveries which tend to show that character is determined by early education to a much greater extent than was thought by the most enthusiastic educationists of former generations. I distinguish between education of character and education in knowledge, which may be called instruction in the strict sense. The distinction is useful, though not ultimate: some virtues are required in a pupil who is to become instructed, and much knowledge is required for the successful practice of many important virtues. For purposes of discussion, however, instruction can be kept apart from education of character. I shall deal first with education of character, because it is especially important in early years; but I shall carry it through to adolescence, and deal, under this head, with the important question of sex-education. Finally, I shall discuss intellectual education, its aims, its curriculum, and its possibilities, from the first lessons in reading and writing to the end of the university years. The further education which men and women derive from life and the world I shall regard as lying outside my scope; but to make men and women capable of learning from experience should be one of the aims which early education should keep most prominently in view. |