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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集』

* 原著:英文(原文)
* 出典:R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集)』(講談社、1970年)

I.宗教(関係書簡)解説

目次  |  英文(原文)
* 出典:R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集』

'わたしは、クリスチャンではありません。また、15歳の年以来クリスチャンであったことはありません。'

ラッセルの言葉366
 バートランド・ラッセルは、その生涯をとおして、宗教に反対し、究極の存在(神)といった観念を受け入れなかった――これは言っておく必要があるが、このことはつねに正統派を挑発し続けた。
 実際、自由思想家である両親アムバーレイ卿夫妻の急進的な考え方は、当時の英国ヴィクトリア朝時代の社会からまさに、言語道断の思想とみなされていた。もっともラッセルは、このようないささか失礼きわまる環境で得をしたということはない。(原文:Not that Russell was to be given the advantages of this somewhat disrespectful environment.)アムバーレイ夫妻はごく若くしてこの世を去った。彼らは生前から、バートランドとその兄の二人を、二人の無神論者の友人の庇護の下におきたいとねがっていたのであるが、両親の遺言は法廷の命令で取り消された。そうして二人は、祖父母の庇護の下におかれることになった。
 ラッセルは、彼の発達期にあたる時期について、次のように叙述している。
「政治家であった祖父(John Russell: 英国の首相を2度務める)は1878年(ラッセル6歳の時)に死亡した。それで、わたしの教育方法を決定したのは彼の未亡人、すなわち祖母であった。彼女はスコットランドのプレスビテリアン(長老教会員)だったが、ついにはユニテリアン教徒(三位一体をみとめない一神論者)になった。わたしは日曜日には、教区の教会とプレスビテリアンの教会に交互につれていかれ(松下注:ある日曜日に一方の教会につれていかれると、次の日曜日には別の協会に連れていかれる)、家庭では、ユニテリアン派の教義を教えられた。聖書にある永劫の罰と、それから聖書が文字どおり真実であるということは、教え込まれなかった。また、召使いたちにたいしても、日曜にはトランプ遊びをしないようにとはいっていたけれども、それ以上は、彼らにショックをあたえることをおそれて、安息日厳守主義(Sabbatarianism)を強いることはなかった。
 しかし他の面では、モラル遵守は厳格であった。そして、神の声である「良心」こそが、いかなる場合でも、実際にこまったときの絶対に間違いない導き手(ガイド)であると考えられていた。」(『バートランド・ラッセルの基本的著作』の中に再版されている「私の宗教上の回想録」からの引用)
 結果は祖母が希望したものとはまったく違ったものとなった。もしラッセルが父と同じ教育法で幼年時代育てられたとしたら、ラッセルはすぐに父と同じような考え方を持つようになるかもしれないということは予想できたことだったかもしれないことではあるが。15歳の年にラッセルは、(家族に)見つからないように、「ギリシア語練習帳」(写真参照)と名付けたノートに宗教上の疑問をこっそりと書き記していった。彼は18歳の年までに、すなわちケンブリッジ大学に入る直前に、あらゆる不確定なものを捨て去り、無神論者になっていた。後に彼は、自叙伝の中に次のように当時の思い出を記している――
「わたしは、長い間、宗教上の疑問に満たされていたので、次第に信仰を失って、たいへん不幸であった。しかし、この過程が完了したとき、驚いたことに、宗教上の全ての疑問と真正面に取り組めたことを喜んでいる自分を発見した。」
 幼少年時代の孤独感は、1890年代のケンブリッジ大学で見つけた「解放」によって終止符が打たれた。ラッセルは、疑いもなく、当時のケンプリッジの雰囲気を大いに満喫した。後になって1961年に、そのころの同期生の一人の思い出を次のように記している。 ――
「わたしは学生時代のラルフ・ヴァウガン・ウイリアムズ(Ralph Vaughan Williams:1872年10月12日-1958年8月26日、作曲家/レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ と発音するらしい)を知っていった。彼は当時最も信念の固い無神論者だった。そしてある日、'今日だれが神などを信じているのか――ぼくはそいつを知りたいね'」と声高く言いながら講堂に入って来たために、みんなから注目された。」
 ラッセルをして宗教的ドグマ反対に駆り立てたものは、信心深い人々にショックをあたえようとの単なる気まぐれではなかった。なぜなら、彼は世界中のあらゆる大宗教を、単に真実でないばかりでなく、むしろ有害であると考えていたからである。彼は、「私の宗教上の回想録」(前出)の中でこう書いている――
「諸宗教はたがいに意見を異にしているので、(正しいものがあると仮定しても)最大1つのみが真理でありえる(その他は虚偽である)ことは、論理(学)上明瞭である」と。そしてさらに「宗教が真理かどうかというのは一つの問題であり、また宗教がはたして有用なものであるかどうかというのは別の問題である。わたしは、宗教は真実ではないと同様に、宗教は有害であると確信している。
 ラッセルは、それがヒンズー教に属するものであろうとあるいは他のいかなる種類の宗教に属するものであろうと、伝統的な宗教の慣行である神聖な牛などという迷信を粉砕することを楽しんだことは、ここに収録された手紙を読めば明らかである。しかも、それらのすべての手紙の根底には、同じ人間である人々の感情にたいする彼の深い同情と関心が横たわっていることがはっきりとわかるのである――すなわち、彼らが、有害なドグマと迷信の枷(かせ)から解放されるようにとの彼の願いと、それから、彼らが欲しないような社会的悪影響をおよぼす誤れる信仰に対して彼が断固として反対しているということがわかるのである。