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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展 16-22 - My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第16章 「非論証的推論語」n.22 - 観察された事実と科学的抽象との関係


ラッセル英単語・熟語1500
 科学的知識のいくつかの体系の分析から始めよう。科学的知識は全て、何らかの算法(the methods of some calculus 計算手段)によって容易に操作できることを目的とした,人工的に作られた存在(entities 実体、存在)を用いる。 その科学が進歩していればしているほど、それは真実である。 経験科学の中では、そのことは物理学において最も完全に真実(事実)である。 物理学のような進歩した科学においては、哲学者にとって、科学を一つの演繹体系として示すという予備的な作業がある。その演繹体系は、ある一定の原理から出発し、残りはその原理から論理的に導出され、また,その演繹体系は、当該科学が扱う全てのものが少なくとも理論的に定義可能であるところの現実的あるいは仮説的な存在から出発する。この(予備的な)仕事が十分になしとげられたならば、分析の後に残留物(残滓/カス)として残るそれらの原理や存在を、当該科学全体に対する抵当(人質)として取っておくとができ、哲学者はもはや、その科学を構成している他の複雑な知識に関心を持つ必要がなくなる。

 しかし、いかなる経験科学も単に一貫性のある(整合性のある)お伽話であろうとするものではない。 科学は、現実世界に適用可能でありかつ現実世界への関係のゆえに(正しいと)信ぜられるところの(諸)陳述から構成されることを目指している。たとえば、科学の最も抽象的な部分でさえ、たとえば一般相対性論のようなものでさえ、観察された事実ゆえに受け入れられている。従って(thus その結果として)、哲学者は、観察された事実と科学的抽象との関係を探究することを強いられる。この探究は長期間の骨の折れる任務である。この任務の困難の一つは、我々の出発点である常識が既に、粗末かつ原始的な種類(の理論)ではあるけれども、理論によって影響されているということである。我々が自ら観察していると思っていること(もの)は、 我々が実際に観察している以上のもの(何らかのものがつけ加わってしまっているもの)であり、その(付け加えられた)何ものかは、常識の形而上学と科学とによって加えられたものである。私は常識の(常識に含まれる)形而上学及び科学を全てしりぞけなければならないと言おうとしているのではない。ただ、それらも我々が吟味しなければならないものの一つであると言っているだけである。それは二つの極、すなわち一方では定式化された科学と、 他方では純粋な(混じりけのない)観察との、いずれにも属しないものである。

Chapter 16: Non-Demonstrative Inference , n.22

Let us begin with the analysis of some body of scientific knowledge. All scientific knowledge uses artificially manufactured entities of which the purpose is to be easily manipulated by the methods of some calculus. The more advanced the science, the more true this is. Among empirical sciences, it is most completely true in physics. In an advanced science, such as physics, there is, for the philosopher, a preliminary labour of exhibiting the science as a deductive system starting with certain principles from which the rest follows logically and with certain real or supposed entities in terms of which everything dealt with by the science in question can, at least theoretically, be defined. If this labour has been adequately performed, the principles and entities, which remain as the residue after analysis, can be taken as hostages for the whole science in question, and the philosopher need no longer concern himself with the rest of the complicated knowledge which constitutes that science.

But no empirical science is intended merely as a coherent fairy-tale. It is intended to consist of statements having application to the real world and believed because of their relation to that world. Even the most abstract parts of science, such, for instance, as the general theory of relativity, are accepted because of observed facts. The philosopher is thus compelled to investigate the relation between observed facts and scientific abstractions. This is a long and arduous task. One of the reasons for its difficulty is that common sense, which is our starting-point, is already infected with theory, though of a crude and primitive kind. What we think that we observe is more than what we in fact observe, the 'more' being added by common-sense metaphysics and science. I am not suggesting that we should wholly reject the metaphysics and science of common sense, but only that it is part of what we have to examine. It does not belong to either of the two poles of formulated science, on the one hand, or unmixed observation, on the other.

(掲載日:2022.04.27/更新日: )