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バートランド・ラッセ科学の弁証法の構想(松下訳)- My Philosophical Development, by Bertrand Russell

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第4章 観念論への脇道 n,9 - ル 私の哲学の発展
第4章


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 1896年(注:ラッセル24歳)から1898年にわたって物理学の哲学について私が書いたものを今読みかえしてみると、(これらの論文は)全く無意味なものであると私には思われる。また,どうしてこれらの論文が無意味でないと(当時の)自分が考えることができたのか、想像することが困難であると思う。(しかし)幸いなことに、この研究のどれかがもう発表(公表)してもよいと思う段階に達しないうちに、私は自分の哲学全体を変え、この2年間にやった全てのことを忘れ始めていた。けれども、私が当時書きつけたノート(覚書)には歴史的興味があるかも知れず、また、それらは(現在の)私には見当違いのものであると思われるけれども、ヘーゲルの著作以上に見当違いのものだとは私は考えない。それでこの2年間に書いたノートの中からよくその特徴を表している数節をあげると以下のとおりである。(訳注:本書にはこの後8つのエッサイが収録されています。)

科学の弁証法の構想(1898年1月1日)

 空間と時間とを最初から含めておくことによって、純粋論理の弁証法よりももっと密接な関係を「現象」(Appearance 大文字であることに注意)に対して持つところの弁証法を、また、単なるカテゴリー(範疇)の図式化/体系化以上のものによって,そこから多分異なった(別の)弁証法を,獲得できると思われる(訳注:論理学は通常、時間や空間は関係ない,またそういったものを捨象しないといけない、と考えられている)。というのは,カテゴリー(範噂)と感覚との間には化学的結合ともいってよいようなものがあって、純粋なカテゴリー(範噂)を後から図式化/体系化するだけでは得られないような新たな観念を生むかも知れないからである。この弁証法において(は)、(というもの)は直接的な所与(データ)そのものにのみ適用可能な概念であるという(前に得られた)結果から、しかもその適用によって直接的な所与(データ)を媒介されたものにする概念であるという結果から、私は始めるべきであろう。従って、から弁証法的に派生する全てのものは、論理的な範噂(カテゴリー) -それらの論理的範疇はいずれも接着力としての(as stick)直接的所与(データ)そのものにはまったく適用されない- とは根本的に(materially)異なるものであろう。この見解は,数学の成功を支持するとともに、数学の成功を説明するものである。この見解に従えば、連続体とか充実体(pulenum プレナム:物質が充満した空間 )とかいうような観念において、論理学によっては求めても得られない直接性が、保持されるということが可能(=保持されうる)と思われる。このようにして、我々は、まず「実在」を構成し,次に「実在」と「現象」とのどうにもならない二元性に直面させられるというやり方ではなく、まず「現象」から出発してそれを「実在」に変える方法を見つけ出すことが可能となるであろう。
 しかし、そのような弁証法においては、最後の段階を除いた全ての段階において、無矛盾性(self-consistency 首尾一貫性)をあまりも厳しく要求することは避けなければならない,ということは守られるべきである(to be observed that 順守されるべき)。感覚的要素が常に存在するはずであるから(is to be present 現前する運命にある)、我々の概念が矛盾をふくむ場合でも、その全ての矛盾を我々の概念を非難するものと見なすことはできない。(即ち)矛盾のあるものは、感覚的要素から不可避的に生ずるものと見なさなければならない。それゆえ,そのような弁証法を構成するに先立って、避けうる矛盾と不可避的矛盾とを区別するための原理が発見されなければならない。私の考えでは、唯一の不可避の矛盾(と)は,量に属する矛盾である。即ち、「二つの物は、概念的にはあらゆる点において同一でありながら、異なったものでありうる」ということと、それにもかかわらず「そういう相違(注:量における相違)はやはりひとつの概念でありうる」ということとの間の矛盾である(量に関する矛盾)。この矛盾の必然性は、相違が感覚において与えられうるという事実に由来していると思われる。

Chapter 4: Excursion into Idealism, n.9

On re-reading what I wrote about the philosophy of physics in the years 1896 to 1898, it seems to me complete nonsense, and I find it hard to imagine how I can ever have thought otherwise. Fortunately, before any of this work had reached a stage where I thought it fit for publication, I changed my whole philosophy and proceeded to forget all that I had done during those two years. The notes I made at that time have, however, a possible historical interest, and, although they now seem to me to be misguided, I do not think that they are any more so than the writings of Hegel. Some of the more salient passages from the notes that I made in those years follow.

On the Idea of a Dialectic of the Sciences (January 1, 1898)

It seems possible, by including space and time from the beginning, to obtain a dialectic having a closer relation to Appearance than that of pure Logic, and perhaps differing therefrom by more than the mere schematization of categories. For there may be what we might call a chemical union between categories and sense, leading to new ideas not obtainable by mere subsequent schematization of pure categories. In this dialectic, I should start from the result that quantity is a conception applicable only to immediate data as such, and yet rendering them mediate by its application. Everything, therefore, to be derived dialectically from quantity would differ materially from the logical categories, none of which applies to immediate data as stick. The success of mathematics both sustains and is explained by the present view. It seems possible that, in such ideas as the continuum and the plenum, the immediacy vainly sought by logic is retained. We might thus find a method of turning Appearance into Reality, instead of first constructing Reality and then being confronted by a hopeless dualism.

But it is to be observed that, in such a dialectic, one must avoid, at all stages short of the last, too rigid a demand for self-consistency. Since a sensuous element is to be always present, we cannot regard every contradiction as condemning our conceptions ; some must be regarded as inevitably resulting from the sensuous element. Before such a dialectic can be constructed, therefore, a principle must be discovered by which to distinguish avoidable from unavoidable contradictions. I believe the only unavoidable contradiction will be that belonging to quantity, namely that two things may differ though in all points conceptually identical, and that the difference may be a conception. This contradiction appears to derive its necessity from the fact that differences may be given in sense.
(掲載日:2019.06.20/更新日: )