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バートランド・ラッセル自伝 第1巻第1章 - 知的な孫 (松下彰良・訳) - The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第1章(幼少時代)累積版 総目次

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 私が12歳頃のある時,彼女(母方の祖母 Lady Stanley of Alderley/右写真出典:Bertrand Russell Archives)は私を部屋いっぱいの訪問客の前に立たせ,彼女が列挙した通俗科学の一連の本を読んだかどうかを私に質問した。私はそのうちの一冊も読んでいなかった。彼女は最後に嘆息をついた。そして来客の方を向いて言った。
私には知的な孫は一人もいません
 彼女は18世紀タイプの人であり,合理主義的で,想像力に乏しく,啓蒙(活動)に熱心で,ヴィクトリア朝時代の'善良ぶった口やかましさ'を軽蔑していた。彼女は(ケンブリッジ大学の)ガートン・コレッジGirton Collegeの創設に関係した主要人物の一人であり,彼女の肖像写真はガートン・ホールに掲げられているが,彼女の方針は彼女の死とともに顧みられなくなった。(松下注:因みに,ラッセルの2番目の妻ドーラは,ガートンを卒業している。)
 彼女はいつもこう言っていた
「私が生きている限り,ガートンには決して礼拝堂を建てさせません。」
 現在の礼拝堂は,彼女が亡くなったその日に建設が始められた。私が青年期に達するやいなや彼女は,私の養育にあたって,彼女が感傷的すぎる(女々しい)と考えているところのものすべてを妨害する試みを始めた。彼女はよくこう言っていた。
「誰も私に反論できません(松下注:me はイタリックになって,強調されている。)。しかし,私はいつも言っているのですが,モーゼの十戒の7番目を破ること(=姦淫)は6番目を破ること(=殺人)ほど悪くありません。なぜなら,少なくとも姦淫には相手の同意が必要ですからね。」
 ある時私は,誕生日のプレゼントとして,(ロレンス・スターン著)「トリストラム・シャンディTristram Shandy→右写真)*注を頼み,彼女を非常に喜ばせた。(日高訳では,「その著『トリストラム・シャンディ』(=ビールとジンジャエールとの混合酒のこと)」となっており,勘違いしているようである。→ トリストラム・シャンディは,夏目漱石によって初めて日本に紹介されたが,『我輩は猫である』は,この本をヒントにしたのではないかと言われている。→(参考)夏目漱石「トリストラム・シャンディ」/「トリストラム・シャンディ」は,この小説の登場人物の名前であるが,この小説には主人公はいないらしい。高校の時,名訳と言われる朱牟田夏雄氏の邦訳書が岩波文庫本版であることを知ったが,結局読まなかった。)

 彼女は言った
「私はその本の中に何も書きたくありません。なぜって,あなたはなんて変わったおばあさんをもっているんだろうと,人は言うでしょうからね!」
 にもかかわらず彼女は書いた。それは,著者(Sterne, Laurence,1713-1768)署名入りの初版本(の1冊)だった。(日高一輝氏は,「けれども彼女は書いた。それが自署された'最初の'一冊であった。」と訳されている。日高氏は,祖母が署名した何冊かのなかの1冊だと思われたのだろうか。)これが,私が彼女を喜ばせることに成功したこととして思い出すことができる唯一の機会である。
Once when I was about twelve years old, she had me before a roomful of visitors, and asked me whether I had read a whole string of books on popular science which she enumerated. I had read none of them. At the end she sighed, and turning to the visitors, said :
'I have no intelligent grandchildren.'
She was an eighteenth-century type, rationalistic and unimaginative, keen on enlightenment, and contemptuous of Victorian goody-goody priggery. She was one of the principal people concerned in the foundation of Girton College, and her portrait hangs in Girton Hall, but her policies were abandoned at her death.
'So long as I live', she used to say, 'there shall be no chapel at Girton.'
The present chapel began to be built the day she died. As soon as I reached adolescence she began to try to counteract what she considered namby-pamby in my upbringing. She would say:
'Nobody can say anything against me, but I always say that it is not so bad to break the Seventh Commandment as the Sixth, because at any rate it requires the consent of the other party.'
I pleased her greatly on one occasion by asking for Tristram Shandy as a birthday present. She said:
'I won't write in it, because people will say what an odd grandmother you have !'
Nevertheless she did write in it. It was an autographed first edition. This is the only occasion I can remember on which I succeeded in pleasing her.
 

(Sterne, Laurence,1713-1768)