時に,会話はより最近におよんだ。そうして,どうしてカーライル(Thomas Carlyle, 1795-1881年:イギリスの歴史家)がハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903年:英国の哲学者,社会学者)を 「全くの空虚」と呼んだか,また,ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809-1882)はイギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者)がグラッドストーン氏(William Ewart Gladstone, 1809-1898:政治家。4度首相を務める)の訪問をうけてどうしてそれを大きな名誉と感じたか,といった話を聞かされたものである。 父と母は亡くなっていたので,私はよく両親はどんな人たちだったろうかと思いめぐらしたものである。孤独の中私は,一人でしばしば庭を歩きまわり,交互に,鳥の卵を集めたり,どんどん過ぎ去ってゆく時間について瞑想したりした。もし自分自身の記憶をもとに判断してよければ,幼少時代の重要で人格を形成する印象(感銘)は,子供らしく何かに夢中になっている最中のほんの一瞬だけ意識にのぼってくるにすぎないし,またそれは決して大人には話さないものである。どんなことでも外部から強いられてするということはない(漫然といろいろなものを観察する)幼少時代は,若い時代のうちでも重要な時期であると私は思う。なぜなら,その時期は,こうした見た目には一瞬であるが,しかし実は(生涯消えることのない)必要不可欠な印象を形成する時間を与えるからである。 (松下メモ)邦訳文を読んでいて,理解できなかったり,論理的におかしいと思えば,ほぼ誤訳だろうと思っていいだろう。しかし問題なのは,日本語として自然に読めてしまうが,誤訳している場合である。日高訳にはそういう箇所が非常に多いのでやっかいである。たとえば,上記の文章でいえば,最後のところであるが,日高氏は「何故ならば,その時期は,こうした明らかにとりとめのない,しかも実は生涯消えることのない絶対的に重要な印象を形成する時代だからである。」と訳しておられるが,誤訳とまではいえないかも知れないが,下線を引いたところは,「見た目には一瞬(のこと)であるが,しかし・・・」と訳すべきところだろう。
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My father and mother were dead, and I used to wonder what sort of people had been. In solitude I used to wander about the garden, alternately collecting birds' eggs and meditating on the flight of time. If I may judge by my own recollections, the important and formative impressions of childhood rise to consciousness only in fugitive moments in the midst of childish occupations, and are never mentioned to adults. I think periods of browsing during which no occupation is imposed from without are important in youth because they give time for the formation of these apparently fugitive but really vital impressions. (撮影年月日不詳/Russell Archives所蔵) |