バートランド・ラッセルが、若いころ興味をもった分野の一つに幾何学基礎論があった。1897年(ラッセル25歳の時)に、かれは、リーマンの有名な論文「幾何学の基礎をなす仮説について」(1854)を批判する文章を著わし、1902年版のブリタニカの百科全書には、「幾何学」の補遺項目として、その文章の意味を含めた長文の寄稿を寄せている。このことは、あまり知られていないと思うので、ここに紹介するのも、一興かと思う。(ちなみに、新版(1957年版)のブリタニカの「幾何学」の項の末尾にも、ラッセルの書いたその文章の一部が残されているが、かれの名は執筆者リストからは消え去っている。また、そこにはリーマンを批判した部分などは除かれ、全体の長さも、もとの長さの五分の一以下になっている。もとの補遺項目は、相当に長いので、そのまま訳せば、何十枚かになるであろう。それはかなり専門的でもあるので、ここには、ごくかいつまんだ紹介をするにとどめる。)|
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「この深い論文は、少くとも次の1点において批判の余地があるようである。それは座標の導入についてである。座標が前からあるものとし、循環論法に陥らないで、距離を論ずることができるのならば、距離が前にあるものとして座標を導入すべきではないのはもちろんである。そうとすれば、座標をいかにして導入すべきかという問題が残る。この問題には、射影的見地をとれば容易に答えられるが、リーマンの見地からは答えられない。なお、座標が空間のなんらかの大きさを表わすとすれば、すべての場所における同じ量なるものがあることを仮定しなければならない。そのときは、空間の曲率は一定でなければならないこととなる。もしそうでないとすれば、幾何学は地理学と同様にそれぞれの場所の性質を論ずるだけで、一般的な定理はでき得ないこととなろう。・・・」かれの歴史的記述は、なおヘルムホルツ、ベルトラミ、ケーレー、クラインと続いて、結局は、射影幾何学の体系に、双曲線的、楕円的非ユークリッド幾何学ならびにユークリッド幾何学を従属させるケーレー・クラインの立場に到達して、それを最終的のものとする。
「その1は、異なる公理体系を明確にわけ、それによって、幾何学の結果を論理的に分析したことである。われわれは、幾何学のある仮定から導かれる部分と、それとは独立な部分とをはっきりと区別し、射影幾何学からだんだんと特殊化してユークリッド幾何学に達する一連のヒエラルキーが作られることを見た。かくして、古代よりルジャンドルにいたる大数学者たちの、ユークリッドの他の公理から平行線の公理を導こうとした試みは、全く無益であったことが示された。・・・。以上、引用符をつけて引用した部分は、いずれも、新版のブリタニカには削られている部分であるが、これらの記述はいかにもラッセルらしくておもしろい。もっとも、その後の幾何学の進歩も考えれば、これらのうちのある部分が削られたのは当然とも考えられる。たとえば、リーマンの批判の部分は、今日から見れば、ラッセルの方の見透しがよくなかったといわねばなるまい。アインシュタインの相対性理論と関連して、リーマン幾何学の研究が急速に進んだのは、1920年代であった。20世紀の初めごろには「幾何学が純粋数学になった」とはいっても、「空間」は現象空間のある属性を具えていなければならないという固定観念を、ラッセル(当時25歳)のような哲学者すらまだ持っていたのである。このような点では、リーマンのほうが、もっと考えが深く、もっと見透しがよかったといわなければならない。
非ユークリッド幾何学が明らかにした第2の点は、もっと哲学的なものである。すなわちわれわれは種々の幾何学がいずれも現象空間の主観にたよらず、論理のみによって構成されることを見た。これらの幾何学は、どれもそれ自身、われわれの現象空間の性質を明らかにするものではないのである。従って幾何学は純粋数学となり、他方現象空間の研究は、実在する物に関する他の実験科学と同様の学問となる。幾何学と現象空間の研究は全く分離され、幾何学は現象空間についてのなんらの知識をも与えないことになる。それはたとえば、算術によってイギリスの人口が知られないのと同様である。かくて純粋に論理的あるいは先験的な推論によって、実在する物に関する結論を得ようと試みる人たちの最後の牙城は、非ユークリッド幾何学の示唆する攻撃によって打破されることとなる。その示唆する結論は、実在しない物に関する命題から、実在する物に関する命題は導かれないということである。ただし、この結論を証明するためには、哲学のすべての部門についての考察を必要とするであろう。」