山本信「思想史とバートランド・ラッセル」- 日本バートランド・ラッセル協会_第2回_研究発表会 講演要旨
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第6号(1966年12月),pp.4-5.
* 山本信(やまもと まこと:1924年~)は、当時東大教授。写真は、(ラッセル研究発表会で)講演中の 山本信氏。
我々がラッセルの思想をうけとる場合、そこにどんな問題があるかということについて、ひとつの角度から私なりの意見を申し上げ、御参考に供したい。演題の意味は、ラッセルが思想史をどう見るかではなく、思想史のなかでラッセルがどう見られるかである。
ラッセルの学問上の中心的業績は論理学関係の仕事である。論理学といえば、高度に専門化した技術であるような印象もあたえようが、もとをただせば我々の考え方や話し方の骨組にほかならない。だから、論理学としてどのようなものを立てるかは、ものごとについてどのような仕方で考えようとするのか、世界の構造をどのようなものとしてとらえているか、ということを意味する。この観点から見て、ラッセルの『数学原理』に代表される現代の記号論理学と、アリストテレス以来の旧い型の形式論理学とをくらべると、単に前者は後者よりもずっと進歩したものだというだけではすまず、両者は根本的に異なった考え方にもとづいていることがわかる。そして、後者をすてて前者をとるべきだと簡単に言ってしまうわけにはゆかない、というのが私として今日ここで申し上げたいことである。
昔の形式論理学では、概念(あるいは語)どうしが主語と述語という形で結びついて命題(文)をつくることが、基本になっていた。その際、概念の結合のしかたは、形式上は外延(その概念のあてはまる事物の範囲)のあいだの関係として表現されたが、この外延関係は常にそれぞれの概念の内包(意味内容)によって決定され、内包の方が基礎になっていた。したがって、命題の真偽は、内包に関し主語が述語をふくむかどうか、述語が主語に内属するかどうかに基づいていた。そしてこのことは、「類と種」という関係を原型として考えられていた。
この論理学は、「実体」という言葉で代表される考え方をあらわしている。実体は、それ自身で存在しているものとして、主語の位置にあり、述語となる性質や状態や関係をになっている。そして述語のうち、その実体にたまたま属する「偶有性」に対し、その実体にかならず具わっていなければならない性質が、「本質」である。こうして世界の事物は、それらの本質のあいだの類種関係によって秩序づけられている、という考え方が根底にあった。我々人間もその本質の秩序のなかに位置づけられ、そこから意味と価値をえていた。
こうした考え方は、哲学用語でいわれると縁遠いもののように感じられるかもしれないが、実は我々の常識において親しくはたらいており、日常的な話し方にふくまれている。我々が事物のさまざまの「種類」について語り、それらの「本質的」な区別を考え、世界を段階的な「秩序」をもったものとして見るとき、いつもそうである。
現代の記号論理学はまったく違ったゆき方をとる。単位になるのは概念でなくて命題である。しかもその意味内容は無視され、ただそれぞれの命題の外延(すなわち真か偽かの値)の関係だけが問題にされる。主語と述語という形で命題がとりあつかわれるときは、重点がもっぱら述語の側にのみおかれる。昔の論理学において主語の資格で登場していたものは、ここでは述語に書きかえられ、それの主語になるのは、任意の値をとりうる「変項」でしかない。この変項が一つの個体に関してきまった値をとるときも、それは単なる名前か指示代名詞としてより以上の意味をもたず、囚人や捕虜につけられる番号とかわらない。
この論理学があらわしているのは、要するに「科学的」な考え方だといえる。すなわち、内容としては、個々にあたえられる現象的事実しかなく、それらをになう実体や本質を考えない。そしてそれらのあいだの結びつきは、数学を典型とする「外延的」な関係であり、この関係の法則性が世界の「合理性」にほかならない、というわけである。
西洋近世の初頭に自然科学が始まったとき、それは考え方そのものの根本的な改革を意味した。このことが「科学革命」とよばれたりする。そこに発した近世哲学の展開とその意義については、このほか多くのことが言われなければならないが、今は一切省略して、一挙に、この科学的な考え方を徹底化し純化したものとして記号論理学を位置づけてみる。すると、この線上にある思想の基本的特徴として、次の2つのことをあげうる。1つは、すでに前もって出来上っている内容的な連関や秩序を根底に置いて考えるのではなく、ものごとを先ずばらばらの要素の形でとりだし、その上でそれらのあいだの関係を合理的に規定してゆこうとする態度である。もう1つは、ものごとを、それ自身の内部から理解するのではなく、外から見ての述語の集合としてとらえ、外に現われた性質や状熊や関係によって規定されるよりも以上の意味を、そこに認めないでおこうとする態度である。こうした考え方が、近世を通じて社会や政治を動かし、その他さまざまの場面で現われてきたが、それを全体として「近世的合理主義」とよんでおく。
ところで現代においては、この近世的合理主義は破産しかかっている。各人が合理的に考え、善意をもって行動してゆけば、人類の福祉は増進してゆくはずだという進歩のオプティミズムは、今や、人々の悲願とはなりえても、手放しで信ずるわけにゆかなくなっている。それは現実の人間世界の動きに対して無力であるばかりではない。非常に困った悲しむべきことだが、場合によっては、この善良なる合理主義の主張がかえって人に迷惑をかけ、国家間の対立を激化させることさえある。また人間が、究極の主語であるべき主体としてのあり方からはずされ、社会における役割や機能という述語や関係の面からのみとりあつかわれることは、いわゆる「自己疎外」の状態にほかならない。マルクス主義や実存哲学が根強い力を保っている理由と意義もそこにある。さらに、近世の科学と現代の論理学は、ある意味で常識の考え方や日常の話し方を逆転させるが、しかし、常識や日常言語は、単に曖昧で不正確なものであり、したがって科学や論理学の合理性で置きかえられるべきものなのかどうか、哲学約に重大な問題である。
私のこうした見方に反対して、現代では科学的な考え方が疑問視されているどころか、まさに科学と、それに基づく技術があらゆる領域で支配的であり、また我々としてそれ以外に人類の未来を托すべきものはない、と言われもしよう。しかし、この現状が意味するところは逆のことかもしれない。どんな思想にせよ、ある1つの考え方が、真理と有用さの名のもとに権威となり、はじめから当然のこととして支配的な力をふるっているようなときには、実はその思想はすでに固化し、本当に人類の未来をきりひらいてゆく思想的エネルギーを失ったものになっていることが少なくない。
最後に2つの指摘をくわえておきたい、第1に、ラッセル自身は、自分の論理学や哲学説と、政治思想や実践的活動とは別ものだと言っており、後者の面での彼の真剣なヒューマニズムに、私はいささかも疑いをいだかない。しかし、哲学的理論と社会思想とのあいだが無関係だったり矛盾していたりするのなら、そのことの理由を明確に意識し、何らかの統合を求めることは哲学にとってもそして実際の行動にとっても、次の一歩をより有効にふみだすために大切であろう。
第2に、近世的な合理主義がもはやそのままでは通用しないといっても、私はその逆をとるべきだというのでは決してない。とくに、あらゆる形態でのファシズム的傾向に対して、我々は絶えず警戒し戦ってゆかなければならない。それと同時に、おそらく一番重要な基本的問題は、近世的合理主義とファシズム的狂信との対立する場面で右往左往するよりも先に進んで、新たな思想と実践の原理、すなわち新たな合理性を求めることであろう。この点に関し、我々の時代の最大の知性の一人であるラッセルから何を学ぶべきかは、我々として真剣に考えてゆかなければならないことである。