日本のバートランド・ラッセル研究者・関係者(故人)の発言 - 横関愛造
* 横関愛造(1887~1969. 5. 4):雑誌『改造』の編集長
1920年9月だったろう。中国の雑誌『改造』の主宰者蒋方震(百里)氏から、今度北京大学の招待で、バートランド・ラッセル教授が、約半か年間、大学の講壇に立たれることになった。すでに英国を出発されて上海への船中におられるが、この機会に日本の大学で招待される所はないかと、私たち改造同人に連絡があった。
好機逸すべからずと、私たちは2,3の大学に当たってみたが、何分にも社会改造論、非戦論などの看板を掲げた学者であっては、日本領土への上陸さえ許されないだろうという見とおしから、どこの大学でも敬遠されてしまった。
こうなったらいっそ、我々改造同人で招待しようではないか。勿論、創刊してまだ一か年半の一雑誌社がそんな企てをしてみたところで、とてもラッセル教授は承諾してくれまい。・・・。
ラッセル教授が上海に着いたという外電を新聞で見たその日、蒋氏からの電報で、「教授は承諾してくれそうだ。詳しいスケジュールを知らせろ。」という知らせである。
我々は喜んだ。電報の往復ではらちがあかぬ。いっそ北京に行って直接談判しようではないかということになり、私が同人を代表して直ちに北京に向かった。・・・。
狭い薄暗いホテル(=三流?の北京飯店)のロビーに私を迎え入れた教授は、ようこそといった物柔らかな表情で、私に握手をした。・・・。夜となく昼となく、ブラック女史の打つタイプの音が廊下に漏れる。・・・。
日本に行ったら誰か会いたい人はないかと尋ねると、教授は即座に格別そんな人はいないとあっさりした返事だった。しかし日本側では是非会わせてほしいとの要求があったので、神戸に上陸した教授は直ちに京都に直行して、都ホテルで京都大学その他の学者27人と会見した。
(このあと、雑誌『改造』1921年9月号掲載の「ラッセル印象記」からの引用が続く。)
京都で講演会をやるはずだったが、警察への届け出が時間切れとやらで中止になった。実は間違いを起こして責任を取らされるのが面倒だったので、署長がうまく逃げたものらしいと伝えられた。・・・。
東京での講演は、慶応義塾の講堂で開催された。大学の講堂を使用することは実は非常な難物であったが、堀江帰一、小泉信三教授などの並々ならぬ尽力で断行された。
聴衆は堂にあふれ、延々と入場者の列は三田の電車通りまでつながる盛況であった。・・・。
その翌日、私は内務省警保局に宇野慎二検閲係長を訪ねた。「慶応義塾の講演会はいつもより取り締まり方針が寛大だったのではないか。」と聞くと、宇野は、妙に含みのある笑みをうかべて、「臨席の検閲官にはラッセルの学説があまりに深遠でわからなかったじゃないかなあ。取締官に十分理解できないような学説は、一般の人たちにはなおわかるまいから、実害は伴わないと考えてもいいと思うね。一般社会に実害を及ぼさないものまで取り締まるほど我々も野暮天じゃないよ。」
・・・。宇野係長は随分厳しい検閲官として、新聞雑誌仲間からはきらわれもした。しかし官僚には珍しい勉強家で、物分かりも良かった。思想的には英国式のギルド・ソシアリズムの信奉者であったから、ラッセルに傾倒していたことは争われないようだ。
『改造』には北京から第一稿を1921年1月号に寄稿されたのが最初ではなかったかと思う。爾来連続して寄稿されたものを数えると1923年9月関東大震災に至るまでに、15篇の長論文を執筆された。関東大震災の時は、私たち同人の安否を気遣って、見舞いの電報をもらったことを覚えている。・・・。
(『ラッセル協会会報』n.2 の p.5~8より)