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大竹勝「バートランド・ラッセルと文学者たち」 - バートランド・ラッセル協会_研究発表要旨

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第14号(1970年3月)pp.8-9.
* (故)大竹勝 氏は当時,東京経済大学教授
* 柴田多賀治「B.ラッセルとD.H.ロレンス」


ラッセル協会会報_第14号
東京経済大学教授の大竹勝の肖像写真  『記憶による肖像』(Portraits from Memory, and ..., 1956/みすず書房版の邦訳書名:『自伝的回想』)以来,われわれは,J. B. ショー,H. G. ウェルズ,J. コンラッド,D. H. ローレンスなどについてのラッセル独特の辛辣な,ヒューマ(ユーモア)に富んだ批評に接することが出来る。大学の文学部の連中からラッセルが卒論の対象になるだろうかと問い合わせがきたりするので,彼自身2冊の小説の作家であることまでリマインドしなければならないていたらくである。
 辛辣さは彼の文体の一つの特徴であるが,それは勿論彼の論理の鋭さからくる。しかしその辛辣さをスイフトのそれにしない,おおらかな笑いが含まれているのだから,彼はやはりヒューマを持った文学者ということになる。それは彼の一面にある貴族主義的な,物おじしない自由な環境や,性来の自信から来たものであろう。
 初めにあげた文学者たちのなかで,彼が心から尊敬していたのはコンラッドであって,自分の長男に父と祖父がジョンであったから,それは残しておくことにして,ジョン=コンラッドと命名したいこと,そしてコンラッドに名づけ親になってもらいたいことを申し出て,それを快諾されている。
 ラッセルが一番猛烈に酷評したのはローレンスであろう。それは『記憶による肖像』の時代からそうであったが,昨年出版された『自叙伝』第2巻ところに現れている。「大抵のひとが気づかずにいるが,ローレンスは彼の妻の代弁者だ」とラッセルは言う。「ローレンスは雄弁だが,アイデアを持っていたのは妻のほうだ。イギリスでまだ精神分析が流行していなかった時代に,彼女は毎夏の一部分をオーストリのフロイド一派のコロニーで過ごしたものである。そのうち,どういう経路かはっきりしないが,彼女は後でムッソリーニやヒトラーが展開したアイデアを,早くから吸収して,いわゆる'血の意識'によってローレンスに伝えたのである。」
ラッセルの著書(原著)の Nightmares of Eminent Persons の表紙画像  ラッセルはさらにローレンスと彼の妻について語る。「ローレンスは本来臆病な男で,それをかくすためにどなりちらした。彼の妻は臆病ではなく,どなりちらすのではなくて彼女の堂々たる非難は雷のような性質を持っていた。彼女の翼の下で,ローレンスは比較的に安全であった。マルクスと同様,彼はドイツの貴族と結婚したことを得意とするうぬぼれを持っていた。そして,『チャタレー夫人』で彼女をみごとにかざりたてた。」
 ラッセルは更に,ローレンスについて「彼の思想は裸のリアリズムと銘打った自己欺瞞のかたまりであった。彼の描写力は驚嘆すべきものであったが,彼の思想は読んだはしから忘れられた。」と言っている。
 ラッセルがローレンスにひかれたのは,ある種のダイナミックな特質であった。理性過剰を非難されていたラッセルは,新鮮で強烈なローレンスに接することによって自己のバランスを保とうと思ったのである。事実その後彼が書いた本はローレンスから散々批評されたが,ローレンスを知ったことによってその本は,知らないで書いたより立派なものになったと思うとラッセルは言っている。
 しかし,ラッセルはそれがローレンスからアイデアを得たということにはならないと言っている。ローレンスには,自分の説に服しないとすぐ怒る独裁者じみたところがあって,自分以外にも人間がいるということを知って,他人を憎悪した。大体,彼は孤独な,自分の想像の世界に住んでいて,そこにはものすごいファントムたちが住んでいた。彼が過剰にセックスを強調したのも,セックスだけは,宇宙における彼一人の存在が許されなかったからである。しかも,セックスは,あくなき男女の柑克であると彼は見ていた。そしてこの狂気からナチズムヘの道は近い。

 1914年の10月のある日,大英博物館に近い街路で,ラッセルはかつてのハーバード大学での教え子 T. S. エリオットに出会った。彼はベルリンから脱出しロンドンに来ていたのである。ラッセルは自分のフラットの一部分をこのアメリカ詩人に開放し,経済的に困っていたエリオットを援助した。今や軍需物資を作っている会社の社債券3000ポンドを彼は(松下注:ラッセルは反戦論者であるので)処分に困惑していたのたが,エリオットに与えることにした。後になって,エリオットが富裕になった時,この社債券はラッセルに返却されたという。この2人のノーベル賞受賞者の出会いについては,『宗教は必要か』のなか(の解説部分)でもっと詳細に取り挙げているので,ここでは割愛することにするが,ラッセルがオットリン・モレル夫人に送った手紙のなかにエリオットの最初の妻のことが描写されているのもわれわれの眼にとまる。というのは彼女はあとで精神症に悩み,T. S. エリオットは親友 F. スコット・フィッツジェラルドと同様,狂った妻をかかえて悩まねばならなかったのである。(詩集『荒地』の第二部に出てくる気のふれた婦人のモデルがエリオットの最初の妻であったというのはルイス・マンフォードの説であったかと記憶する。)手紙は1915年7月の,ある金曜日のことである。
「金曜日の晩,ハーバードの教え子であったエリオットとその花嫁と一緒に食事をしました。エリオットがつかみどころのない男だから妻もすごいのかと思ったら,さほどでもありませんでした。彼女はきゃしゃで,いささか俗っぽいところがあり,アヴァンチュール型で,元気のよい女性で-彼は彼女が画家といったかと思いますが,女優のほうが適わしいと思いました。彼はこった男で,おちつかない様子でした。彼女は彼をふるいたたせるため結婚したけれども,なかなか思う通りには行かないと言っています。明らかに彼は刺激を受けるために彼女と結婚したのでしょう。わたしの考えでは,彼女はそのうち彼に倦くでしょう。彼女は潜水艦(松下注:ドイツのUボート)がこわいので,良人の親戚に会いにアメリカに行くことを拒んでいます。彼は彼女との結婚を恥じていて,彼女に親切にしてくれる者があれば誰にでも感謝しています。彼女はミス・サンヅ型です。(ミス・サンヅというのは,教養の高いニュー・イングランドの人で,画家でヘンリー・ジェームズやローガン・ペアサル・スミスの友人でした。)
 ラッセルは若いエリオット夫人の暗い将来を感じていたようでもある。(了)