バートランド・ラッセルは個人の尊重を繰り返し述べている。しかし、「善い生活」には個人として幸福であることが必要であるとしても、それは善い生活という概念の非常にせまいものであるともいっている。人間は孤独では生きて行く価値すら感ずることができない。ほんとうの幸福は、社会的にも幸福であることである。ラッセルは『私は何を信ずるか ( What I Believe )』の中で「個人的な救いと社会的な救い」の題下に、今日の世界ではわれわれは福祉ということについての社会的考え方の方を個人的考え方よりももっと必要としていると述べている。伝統的な宗教のもつ欠点の一つは、それが個人の救いだけを考えている点である。その欠点がそうした宗教とつながりをもつ道徳にも存する。キリスト教は、ローマ帝国内で興ったが、それは自分らの民族的な国は破壊され、ローマという強大国に併合されてしまい、政治的に全然力を持たない大衆の間に興ったのである。その時代の大衆には現実の世界は自分らの力でどうすることもできなかった。ついで、現実の世界とは無関係に、神と個人との対話-神を信ずることにより「個人だけは完全になれる」という教えを信じたのが初期のキリスト教徒であった。他方プラトンは、キリストより約400年前にアテネで一つにまとまった共同社会を考え、共和国の市民という立場で正義を定義している。正義は本質的には社会的概念である。然るに強国の圧制下にあった初期のキリスト教徒は、共同社会のことなど考えることができず、専ら個人としての救いに慰めを求める外なかったといえる。こうした初期キリスト教の影響は近代の西欧諸国に及び、個人主義の著しい発達を見たというふうにラッセルは説き、そして次のような趣旨を述べている。